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'''秦舞陽'''(しん ぶよう、[[拼音]]:Qín Wǔ-yáng、[[紀元前240年]] - [[紀元前227年]])は、[[燕 (春秋)|燕]]の名将[[秦開]]の孫である<ref>『史記』巻110「匈奴列伝」:與荊軻刺秦王秦舞陽者、開之孫也。</ref>。13歳の時、人を殺したことがあり、そのため、当時の人は誰も面と向かって彼を見ることができなかったという<ref>『史記』巻86「刺客列伝」:燕國有勇士秦舞陽、年十三、殺人、人不敢忤視。乃令秦舞陽副。</ref>。後に[[燕太子丹]]が彼を探し出し、[[荊軻]]の助手に起用し、[[咸陽]]に赴かせ、[[始皇帝|秦王政]][[暗殺]]の任務に就かせた。
 
秦王の朝廷では、荊軻が督亢(とくごう、現在の[[河北省]][[保定市]][[涿州市]]・[[高碑店市]])の地図を献上する時、秦舞陽は恐怖から全身が震え始め、不審に思った群臣が尋ねると、荊軻は「北方の田舎者ゆえ、未だ[[天子]]にお会いしたことがないので、恐れおののいています」とごまかした。暗殺が失敗した後に荊軻は殺されたが、[[司馬遷]]の『[[史記]]』には秦舞陽のことは書かれていないものの、同様に殺されたと考えられる。
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