「真田幸隆」の版間の差分

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[[弘治 (日本)|弘治]]2年([[1556年]])9月8日には埴科郡[[東天飾城]]を攻略し、[[小山田虎満]](備中守)とともに城番を務める。『甲陽軍鑑』に拠れば、[[永禄]]2年([[1559年]])に晴信が出家して信玄と名乗ると、自身も剃髪して'''一徳斎'''と号したという。
 
『甲陽軍鑑』によれば、永禄4年([[1561年]]の、第4次川中島の戦いでは、嫡男・[[真田信綱]]とともに妻女山の上杉本陣への夜襲に加わっていたという。川中島の戦いの後、武田信玄は西上野侵攻を開始するが、武田氏に提訴されていた吾妻郡内での鎌原氏と羽尾氏の所領抗争は、双方が真田の同族でもあることから、幸綱が調停に関わっている。永禄6年([[1563年]])には羽尾氏を支援した上杉方の斎藤氏の居城・[[岩櫃城]]を、永禄8年([[1565年]])には[[山城]]を、永禄10年([[1567年]])には[[白井城]]を攻略している。{{要出典範囲|近年の[[柴辻俊六]]らの研究によると、嫡男・信綱と共に、武田氏の上野攻略の拠点・[[箕輪城]]代であった時期もあるようである。これは譜代衆並みの扱いである|date=2017年9月}}。
 
永禄10年([[1567年]])、病気のために家督を信綱に譲って[[隠居]]したとされている。このため、信玄の[[駿河侵攻]]や[[西上作戦]]には加わらず、もっぱら信濃北部及び上州方面の抑えとして活動した。
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