「穴山信君」の版間の差分

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| 特記事項 = [[武田二十四将]]の一人
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'''穴山 信君'''(あなやま のぶただ{{Efn|「信君」の読みに関して従来は「のぶきみ」と読み、異説として江戸時代の『駿河志料』巻四一に「ノブタダ」と訓じるとする説があったが、裏付けとなる史料が確認されていなかった。一方、近年では駿河臨済寺などに住した鉄山宗鈍が記した法語録『鉄山集』に「ノブタヽ」の読みが記されており、信君の偏諱を受けたと思われる重臣・万沢君泰、君基もそれぞれ「タヽヤス」「タヽモト」とあることが指摘され、信君は「のぶただ」と読まれたことが確定された<ref>{{Harvnb|平山|2011|p=104}}</ref>。}} )は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]。[[武田氏#甲斐武田氏|甲斐武田氏]]の家臣で御一門衆の一人。[[穴山氏]]7代当主。
 
壮年期(永禄8年頃)に剃髪して'''梅雪斎不白'''と号したので、'''穴山 梅雪'''(あなやま ばいせつ)の名でも知られる。後代には[[武田二十四将]]の一人に含まれており、南松院所蔵本では信玄の傍らに配置されている。信玄末期より仕え勝頼期にも重臣として仕えたが、織田信長の甲州征伐が始まると武田氏を離反した
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