「ウラジオストク」の版間の差分

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=== ロシア帝国時代 ===
19世紀までは[[清|清国]]の支配地域で[[満州]]の一部であったが、[[1860年]]に[[北京条約]]によって[[沿海州]]一帯を清から獲得した[[ロシア帝国]]が[[沿海州]]の南部に建設した。ロシア人のほか[[ドイツ人]]、[[デンマーク人]]、[[イギリス人]]も都市の建設に携わった。
 
[[イザベラ・バード]]の朝鮮紀行によれば、[[1860年]]に測量を開始、1863年に[[オーク]]やマツの大木を切り払い仮設小屋を建て始めた際には野生の[[アムールトラ]]による被害が出た。[[1878年]]に[[ニコラエフスク]]から海軍施設を移設すると人口は増加し、[[1897年]]にはロシア人のほか[[朝鮮人]]、[[中国人]]などの民間人を含め25,000人規模の都市となった<ref>イザベラ・バード『朝鮮紀行』講談社学術文庫p282</ref>。[[1880年]]以降、[[黒海]]沿岸[[オデッサ]]との間に[[義勇艦隊]]が定期航路を開設し、農業移民を運んだ<ref>[[原暉之]]著『ウラジオストク物語』[[三省堂]]、[[1998年]]、111ページ。川上俊彦著『[{{近代デジタルライブラリーURL|40010573}} 浦潮斯徳]』大倉保五郎、1892年6月、43〜44頁、「[{{NDLDC|767173/25}} 第十七 義勇艦隊]」。</ref>。
 
[[19世紀]]末、[[日本海]]を通じての[[太平洋]]への玄関口として、また北に位置するロシアが悲願とする[[不凍港]]<ref>少なくとも1892年現在、不凍港ではなかった。[[肝付兼行]]述『[{{NDLDC|987872}} 西比利亜鉄道ニ対スル日本ノ開港場ヲ論ス:港湾調査委員報告] 』(金谷昭、1892年)において、海軍水路部長の肝付は、[{{NDLDC|987872/15}} 毎年12月21日より4月15日までは冬期氷結して艦船の出入りが出来ない](表示された右ページ1〜2行目)と記している。また、[[東邦協会]]会員・松浦充美著『東露要港浦塩斯徳』(東京堂、[[1897年]]、[[秋田県立図書館]]および[[大阪府立中央図書館]]所蔵)39ページ、第五「冬時浦港氷塊破砕の模様」によると、[[1893年]]に[[バルト海]]より「軍艦シラチー号を回航し来り同年冬季時結氷の初めより破砕に従事したるを始とし」たが、厳冬期には能力が不足し、軍艦・商船のための航路確保が困難であった。[[1897年]]から[[1898年]]の冬に状況が変わった(東京朝日新聞1898年1月18日3面「浦塩斯徳の繁忙」)。V.l.アガーポフ「研究ノート:露日戦争におけるウラジオ巡洋艦戦隊の作戦」堤明夫訳、軍事史学会編『日露戦争(二)---戦いの諸相と遺産』軍事史学41-1・2合併号、2005年6月、ISBN 4-7646-0319-5、99ページに、艦隊用の基地としてのウラジオストクの「最も不便な点は冬季における90〜120日間の港の凍結であったが、この問題は砕氷艦「ナデージヌイ(Nadezhny)」が配備されたことによって解決され、年間を通しての航行が可能となった」(出典は、Russkoe sudohodstvo, 1904. No.3(263), pp.227-28)と記されている。</ref>として極東における重要な港町に位置づけられ1878年に[[ニコラエフスク・ナ・アムーレ|ニコライエフスク]]から海軍が移駐、[[ロシア帝国海軍]][[バルト艦隊]]、[[太平洋艦隊 (ロシア海軍)|太平洋艦隊]]の分遣隊がおかれた。これは、のちに強化されて[[ウラジオストク巡洋艦隊]]となった。ウラジオストクには[[造船所]]や[[ドック]]が建造されたが、これができるまでロシア極東にはまともな艦船の整備施設がなく、日本の施設に依存していた。