「内丹術」の版間の差分

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=== 内丹の興起 ===
内丹術は物理的に丹を作る外丹術から取って代わるように歴史の表舞台に登場した。内丹という語は、[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]の[[天台宗]]第二祖[[衡山|南]][[慧思]]の『[[立誓願文]]』に「神丹の薬を足らしめてこの願いを修(おさ)め、外丹の力を藉(か)りて内丹を修めん、衆生を安(やす)んぜんと欲して先ず自(みずか)らを安んずるなり」<ref>立誓願文「{{Lang|zh-tw|足神丹薬修此願 藉外丹力修内丹 欲安衆生先自安}}」</ref><ref>{{cite wikisource|立誓願文|慧思|ja|nobullet=yes}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.kosaiji.org/~kyoten/ron/46/1933_001.txt |title= 南嶽慧思大禅師立誓願文 |publisher=仏教典籍検索 |accessdate=2010-08-03 |quote=T46n1933_p0791c15-03,{{Lang|zh-tw|願得深山寂静処。足神丹薬修此願。藉外丹力修内丹}}}}</ref>と見えるのが文献上の初出とされる。ここでは内丹の語の具体的な意味に言及していないが、仏道修行の援けとして芝草や神丹(外丹)を利用し、自分の生を安んじながら禅の修行(内丹)に邁進しよう、との抱負を述べたものとも解される<ref>{{Cite book |和書 |author=石田秀美 |year=1997 |title=からだのなかのタオ 道教の身体技法 |publisher=平河出版社 |isbn=4-89203-279-4}}</ref>。また、宋代の『南総勝集』叙<ref>{{Cite web |url=http://www.kosaiji.org/~kyoten/ron/51/2097_001.txt |title= 南総勝集叙 |publisher=仏教典籍検索 |accessdate=2010-08-03 |quote=T51n2097_p1060c14-03,{{Lang|zh-tw|乃東晋〓郁鄧鬱之修内外丹処。後昇真於南}}}}</ref>に「東晋の鄧郁之が内外丹を修めた」との[[佚文]]が収載されている。このように、内丹・外丹の別を立てる事例は[[六朝]]期にもわずかながらみられるが、まだ内丹の語の定義は決まっておらず、後世と同じ意味での「内なる丹」という概念がいつ頃明確化したのかはよく分かっていない。
 
文献上知りうる限り、内丹説の骨子は[[隋]]代の道士、蘇元朗([[:zh:苏元朗|zh]])によって初めて示されたとされる。『羅浮山志会編』に引かれたその所説には「神丹を心煉に帰する」とあり、すでに性命双修([[:zh:性命双修|zh]])の思想が表れている。それ以降、内丹は社会に知られることとなり、隋唐期のさまざまな文献に内丹の語が現れるようになった。外丹術が隆盛を極めた[[唐]]代には、『上洞心経丹訣』<ref>太極真人(嗣孫手述)『上洞心丹經訣』神仙九転秘方に「{{Lang|zh-tw|服丹之後 当修内丹法 要打坐 内外双修 内丹与外丹相応}}」との記述がある。</ref>をはじめとして内外丹の双修を説く丹経も多かったが、外丹術は[[宋 (王朝)|宋]]代には次第に下火になっていった。これは中毒の事例に対する反省のためとする説もある<ref name="道教と養生思想" />。それと同時に内丹術が外丹から独立した修行法として確立し、外丹術の衰微と反比例するかのように唐末から宋代にかけて盛んになった。[[五代十国時代|五代]]の成立とされる[[鍾離権]]・[[呂洞賓]]の鍾呂派の丹法は、初期の内丹術のひとつの完成した形を示した。その体系は五代の施肩吾の撰とされる[[北宋]]の書物『鍾呂伝道集』などに詳しい。後に鍾離権と呂洞賓は[[全真教]]の祖師に奉られた。鍾呂派などの本格的な内丹は、先行する行気・導引・存思・胎息などの気の養生術を否定し、内丹説を宣揚する形で登場したが、実際にはそれらの気の技法の組み合わせから総合的に昇華発展したものと考えられている。[[北宋]]期には、[[儒教|儒]][[仏教|仏]][[道教|道]]が影響を与え合う三教融合の思潮の時代<ref name="道教事典" />に[[禅宗]]の[[見性]]の考え方を取り入れて、紫陽真人[[張伯端]]が『悟真篇』([[:zh:悟真篇|zh]])を著し、性命双修を提唱した。この丹経は『周易参同契』と並ぶ内丹の古典となり、[[南宋]]以降に北宗・南宗などに分かれる内丹道に規範として影響を与えた<ref name="道教と気功" />。