「常陸山谷右エ門」の版間の差分

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[[1909年]]に自身の著書、「相撲大鑑」を著す。当時は力士が自ら本を記すことはほとんどなく、異例だった。
 
1910年1月場所は前評では梅常陸、太刀山、駒ヶ嶽、國見山、二代目西ノ海の4大関に注目が集まった。そんな中常陸山は9日目まで7勝1休(1休は相手力士が休場したことによるもの)と土つかずであったが、千秋楽は風邪を押して出場して太刀山と引き分け(この結果常陸山は7勝2分、太刀山は駒ヶ嶽と1預あり、よって6勝2分1預)<ref>http://sumo-hositori.com/index.html</ref>、これにより優勝掲額を果たす<ref name="tozaiyusho">『大相撲中継』2017年9月16日号 p98-99</ref>。この場所の東西対抗戦は常陸山の東方が73勝対68勝で西方を抑えて勝利<ref name="tozaiyusho"/>。しかし横綱昇進後は[[糖尿病]]・[[腰痛]]・[[腎臓病]]などの病気やケガに苦しみ、[[1914年]]6月場所をもって現役引退、年寄・出羽ノ海を襲名した<ref name="hitatiyama"/>。引退直後、4日間にわたって旧・[[両国国技館]]で[[引退相撲]]が行われた。
 
=== 引退後~晩年 ===