「澤登正朗」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
72行目:
 
====日本代表(オフト監督・ファルカン監督時代)====
[[1993年]]1月、若手選手中心のB代表で臨んだ[[ルナー・ニューイヤー・カップ|カールスバーグカップ]]に出場。ベンチでは[[清雲栄純]]コーチが指揮を執り、[[ハンス・オフト|オフト]]監督はスタンドで選手の動きをチェックした。この大会での活躍が認められ、2月に行われた[[サッカー日本代表|日本代表]]のイタリア遠征に招集された。[[セリエA]]、[[セリエB]]シーズン中に行われた国際親善試合では、第2戦の[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]戦、第3戦の[[USレッチェ|レッチェ]]戦に出場。[[国際Cマッチ|非Aマッチ]]ではあったがフル代表デビューを果たした。その後も代表に招集され、1993年4月から[[1994 FIFAワールドカップ・アジア予選|アメリカW杯・アジア予選]]に臨んだ<ref>最終予選では2歳年下(3学年下)の[[山田隆裕]]が参加を辞退したため、日本代表(ドーハ組)の最年少選手となった。</ref>。同ポジションには[[ラモス瑠偉]]などがおり、出場機会は多くはなかったが、初戦の[[サッカータイ王国代表|タイ]]戦、[[森保一]]と交代で[[ミッドフィールダー#守備的ミッドフィールダー|ボランチ]]として[[国際Aマッチ]]初出場。予選で唯一[[ミッドフィールダー#攻撃的ミッドフィールダー|トップ下]]の選手と交代で出場した[[サッカーアラブ首長国連邦代表|UAE]]戦で、[[国際Aマッチ|Aマッチ]]初得点。後半38分に強烈なミドルシュートを叩き込み代表を救った。最終戦の[[サッカーイラク代表|イラク]]戦では、「[[ドーハの悲劇]]」を経験。試合終了間際、ベンチの前に立って歓喜の時を待った澤登は、イラク代表の同点ゴールが入った瞬間崩れ落ち「後は覚えていない」と話した。後にラモス瑠偉は、日本がイラクに2―1でリードした際に、疲労で中盤の選手達の足が動かなくなっていたため、オフト監督に、最後の交代カードは「[[北澤豪|北澤]]か、ボールキープできる澤登」がいいとアドバイスしたが実現に至らなかったと話している<ref>{{Cite news|title=スポーツ報知|work=ラモスと武田“ドーハの悲劇”敗戦の原因めぐりバトル|url=https://www.hochi.co.jp/entertainmen/20180507-OHT1T50207.html|accessdate=2018-05-08}}</ref>。澤登は後のインタビューで大会を振り返り、「あのチームにいられたことが誇り、個性的な選手がそろっていたし、本当に強かった」と語っている。
 
[[1994年]]、[[ハンス・オフト]]の後任として、日本代表監督に[[黄金のカルテット]]の一人でもある[[パウロ・ロベルト・ファルカン]]が就任。初陣となった[[キリンカップサッカー1994]]では、'''日本代表の背番号10番'''を付けてプレーした。この大会は当初、[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]が来日予定だったが、[[ディエゴ・マラドーナ]]の入国問題で取りやめになったため、マラドーナとの10番対決は叶わなかった<ref>{{Cite web|title=試合詳細レポート・キリンカップサッカー94|work=|url=http://www.kirin.co.jp/csv/soccer/history/1994/kcs_0522.html|accessdate=2017-01-13}}</ref>。ファルカンジャパンでは、右ひざの怪我のため出場辞退した大会<ref>[[1994年]]7月に行われたアシックスカップ(2試合)は右ひざ挫傷のため不参加となった。この大会は澤登が不在のため日本代表に背番号10番の選手は居らず、大会後には怪我の澤登に代わって、6番の[[岩本輝雄]]が新たに代表の10番に登録された。澤登は怪我から復帰後再び[[スターティングメンバー|スタメン]]に名を連ねたが、背番号は10番ではなく[[1994年アジア競技大会におけるサッカー競技|アジア大会]]で登録された16番を付けてプレーした。</ref> もあったが、[[セットプレー]]のキッカーを任されるなど、中盤のレギュラーを務めた。広島で行われた[[1994年アジア競技大会におけるサッカー競技|アジア大会]]では、怪我の影響で本調子でないながらも<ref>[[サッカーカタール代表|カタール]]戦(第2戦)は足痛により欠場した。</ref>、得点やアシストをマークする活躍を見せた。しかし同年に[[パウロ・ロベルト・ファルカン|ファルカン]]監督が[[更迭]]され、その後[[加茂周]]監督になると、しばらく代表から遠ざかることになる<ref>[[加茂周]]監督就任後の初合宿では、[[1994年アジア競技大会におけるサッカー競技|アジア大会]]の代表メンバーからは[[岩本輝雄]]らと共に招集外となった。</ref><ref>代表から離れている期間もリーグ戦では活躍し、[[1995年]]~[[1997年]]のJリーグ得点率([[ミッドフィールダー|MF]])は100試合33得点の得点率「0.330」と日本人選手で1位であった。</ref>。
89行目:
 
====フットボーラー・オブ・ザ・イヤー====
[[1999年]]シーズンは、[[サッカー日本代表|日本代表]]復帰も果たし、清水の中盤の要としてチームを牽引。公式戦13得点をマークした。1999年度の清水の新加入選手には、[[久保山由清]]、[[安永聡太郎]]のほか、大学・高校の後輩の[[田坂和昭]]や、[[サッカー日本代表#年代別日本代表|年代別日本代表]]で一緒に戦った[[服部浩紀]]等がいた。[[サッカーのフォーメーション|フォーメーション]]は前年までの4-4-2から3-5-2となり、澤登は[[ミッドフィールダー#攻撃的ミッドフィールダー|中盤]]でプレーした。
 
2月には[[FUJI XEROX SUPER CUP|スーパーカップ]]に初出場。前年度リーグチャンピオンの[[鹿島アントラーズ|鹿島]]と対戦した。前半24分に鹿島に先制点を許すも、1分後に[[三都主アレサンドロ|アレックス]]のクロスを澤登がヘディングシュートを決め同点。後半は清水が主導権を握ったが、前年まで得点源の一人であったオリバの退団の影響もあってか、後半23分に鹿島の[[名良橋晃]]にボレーシュートを決められると、終盤の反撃実らず1-2で惜敗した。
97行目:
8月には、日本代表で共に戦った[[ラモス瑠偉]]の引退試合に出場。同月に開幕した2ndステージは、[[スターティングメンバー]]に、GK[[真田雅則]]、DFは[[斉藤俊秀]]、[[森岡隆三]]、[[戸田和幸]]の3バック。[[ミッドフィールダー#ウイングバック|ウイングバック]]の右に[[市川大祐]]、左に[[三都主アレサンドロ|アレックス]]。[[ミッドフィールダー#守備的ミッドフィールダー|ボランチ]]は[[伊東輝悦]]と[[カルロス・アルベルト・ソーザ・ドス・サントス|サントス]]。FWは[[久保山由清]]、[[安永聡太郎]]の2トップ。澤登は[[ミッドフィールダー#攻撃的ミッドフィールダー|トップ下]]で攻撃のタクトを振るった。第2節の磐田戦で初勝利を飾ると、第5節の[[名古屋グランパス|名古屋]]戦では、空中戦で相手[[ディフェンダー (サッカー)|DF]]と交錯し、頭から大流血する怪我を負いながらもヘディングシュートで先制点を挙げ勝利に貢献するなど、気迫のプレーを見せた。第10節の[[ヴェルディ川崎]]戦では、得意の[[フリーキック (サッカー)|フリーキック]]をゴール左上隅に流し込み2-0で勝利。2ndステージ2度目の4連勝に貢献し、2位との勝ち点3差の首位で1ヶ月の中断期間に入った。中断期間中には、[[セレッソ大阪]]にレンタル移籍していた[[堀池巧]]が清水に復帰。第11節の[[京都パープルサンガ|京都]]戦では、2試合連続となるゴールを決めて5連勝。この試合で守備の要である森岡隆三が負傷し今季絶望となってしまうが、その後も苦しみながら勝利を重ね8連勝を記録。11月23日、[[横浜国際総合競技場]]にて初の[[1999年のJリーグ ディビジョン1#2ndステージ|ステージ優勝]]を果たした。
 
12月には年間優勝を賭けた[[ホーム・アンド・アウェー]](全2試合)の[[Jリーグチャンピオンシップ|チャンピオンシップ]]に初出場。が行われ、1stステージを優勝した[[ジュビロ磐田]]との[[静岡ダービー]]となった。第1戦は、前半3430にシーズン途中に清水から磐田に移籍した[[安藤正裕]]のクロスボールを[[中山雅史]]に頭で決められ失点するも、4分後に澤登がドリブル中の[[久保山由清]]と入れ替わって放った技ありのミドルシュートを放って得点を決め、すぐさま同点とす。試合は両者譲らず延長戦となり、延長前半8分に清水がペナルティーエリア内でハンドを取られPKを献上。リーグ戦では堅守を誇った清水であったが、前夜の[[発熱]]で欠場になった[[戸田和幸]]と、リーグ戦で骨折した[[森岡隆三]]という主力2人を欠き、このPKを沈められ2失点を喫し延長で敗れた。

優勝するためにはもう負けが許されない状況となった第2戦は、。0-0で迎えた前半34分に痛恨の失点を喫すると、すぐに追いつきたい清水は2分後、アレックス([[三都主アレサンドロ]])が左サイドをドリブルで駆け上がり、ペナルティーエリアの手前で相手の[[ファウル (サッカー)|ファウル]]を受ける。このファウルは清水のFKとなったが、冷静さを欠いたアレックス]]が相手DFのファールから[[腹部]]を蹴る報復行為で[[レッドカード|一発退場]]となった清水は前半早くも1点ビハインド、1人少ないという危機的状況に陥るが、その直後にチームを救ったのがキャプテンマークを巻いた澤登であった。左45度から放ったボールは弧を描きゴール右隅に吸い込まれ、後に自身のベストゴールと語った25メートルの直接[[フリーキック (サッカー)|FK]]を叩き込み決め同点としたその間わずか5分程の出来事であったが、磐田に一気に傾きかけていた試合の流れを、右足の一振りで引き戻すと、1人少ないその後10人の清水が、延長戦をファビーニョの[[ゴールデンゴール|Vゴール]]で制して勝利した。トータル1勝1敗とし、チャンピオンシップ史上初のPK戦となり、澤登は1人目のキッカーを務め成功。両手を組み勝利を祈ったが、[[カルロス・アルベルト・ソーザ・ドス・サントス|サントス]]とファビーニョが失敗し、PKスコア2-4で敗れて悲願のリーグ優勝はならなかった。チャンピオンシップを振り返って、2得点をマークしたキャプテンの澤登は、「(PKを)外した選手の責任ではなく、我々の力が足りなかった。それに尽きます。勝ち切るということの難しさが改めて分かりました。アレックスの退場もありましたが、我々は10人でもこれだけ出来るのだということが証明できた。チャンピオンにはなれなかったが、非常に良い試合だった」と話した。同じく今大会2得点をマークした磐田のキャプテン[[中山雅史]]は、「エスパルスが一人少ない中でも素晴らしいプレーと闘志を魅せていたので、今日は本当に苦しかった。(要略)僕らがチャンピオンになりましたけど、年間通しての戦いはエスパルスが素晴らしいサッカーを展開していた。勝ち点を見てもエスパルスが一番かなと思います。僕らもまたそれに見合うだけのチームに作り直して来年に臨んていきたい」と試合後のインタビューで健闘を讃えた。清水は年間順位は2位となったものの、年間勝ち点は、磐田を大きく突き放す16ポイント差の1位であった。澤登はその功績を称えられ1999年Jリーグの[[1999年のJリーグ#ベストイレブン|ベストイレブン]]に選出されると、翌年の1月には、1999年度の[[日本年間最優秀選手賞]](フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)を受賞。Jリーグチャンピオンシップ第1戦で決めた得点が[[アジアサッカー連盟]](AFC)月間最優秀ゴール賞に選ばれた。
 
====国際タイトル獲得====
112 ⟶ 114行目:
2001年の[[第81回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]では、準決勝の[[川崎フロンターレ|川崎]]戦で1得点1アシストをマークし決勝に進出。[[2002年]]の元日に行われた決勝の[[セレッソ大阪]]戦では、[[フリーキック (サッカー)|FK]]から2点目の[[森岡隆三]]の得点をアシストするなど活躍し初優勝に貢献。2002年2月の[[FUJI XEROX SUPER CUP|スーパーカップ]]では、2年連続同一カードとなった決勝で[[鹿島アントラーズ|鹿島]]を破り2連覇を果たした。
 
リーグ戦では、[[2001年]]11月17日の[[アビスパ福岡]]戦で得点を挙げ、通算6シーズン目となる公式戦2桁得点を達成。[[2002年]]7月27日の[[東京ヴェルディ1969|東京ヴェルディ]]戦では、Jリーグ史上初となるJ1リーグ戦通算300試合出場を達成した。また、2001年から2シーズン指揮をとった[[ゼムノビッチ・ズドラヴコ|ゼムノビッチ]]監督時代には、ポジションを一つ前に上げ、”偽9番”として起用された試合もあった<ref>{{Cite news|title=SANSPO.COM(サンスポ)|work=収穫だった本田1トップ (3/3ページ)私も清水監督時代にMF沢登をトップで起用し、起爆剤になったことがある。|url=https://www.sanspo.com/soccer/news/20161013/jpn16101308000001-n3.html|accessdate=2016-10-13}}</ref>
 
====Mr.エスパルスとして(キャリア晩年)====