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[[高句麗]]に従属しながら[[百済]]・[[倭]]への対抗に努め、独力で中国([[前秦]])に[[朝貢]]を果たすなどして、はじめて「新羅」として国際的な舞台に登場した。
 
[[364年]]4月に倭の侵入を受け、とても敵わないと恐れたが、数千体の草人形に服を着せて兵器を持たせて[[吐含山]]の麓に並べ、一方で勇士1千人を斧峴([[慶州市]]南東部?)の東に伏兵としておき、進撃してきた倭軍に不意討ちをかけて敗走させた。元々新羅は高句麗の臣民であったが、[[391年]]倭が海を渡って百済や新羅を破って倭の臣民としている。[[393年]]5月に倭軍が侵入し首都金城(慶州市)を包囲され籠城戦を余儀なくされたが、倭軍が退却しようとしたところを騎兵200を送って退路を塞ぎ、歩兵1千を送って独山([[慶尚北道]][[慶州市]])付近で挟撃させ、倭軍を大敗させた。[[399年]]にも倭の侵攻を受ける。倭軍が国境に満ち溢れ城池を潰破し民を奴客としたため高句麗に救援を求めた。翌[[400年]]になると金城が倭軍に占領されるが、救援の高句麗軍が迫ると倭軍は[[任那]][[加羅]]に撤退し窮地を脱した。
 
その間、百済の[[近肖古王]]からは[[366年]]、[[368年]]に使者を受け入れており([[羅済同盟]])、[[373年]]には百済の禿山城([[京畿道]][[安城市 (京畿道)|安城市]])の城主が領民300を率いて投降してきた。このとき百済からは国書を送って返還を求めてきたが、奈勿尼師今は「民草は、行きたいところへ行き嫌になれば去るというように、自分達の望むところに住まうものです。大王(百済王)は自らの民草の思いを配慮せず、私(新羅)を責めるのはいかがなものでしょうか」と答え、百済は何も言ってこなくなったという。