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[[高句麗]]に従属しながら[[百済]]・[[倭]]への対抗に努め、独力で中国([[前秦]])に[[朝貢]]を果たすなどして、はじめて「新羅」として国際的な舞台に登場した。
[[364年]]4月に倭の侵入を受け、とても敵わないと恐れたが、数千体の草人形に服を着せて兵器を持たせて[[吐含山]]の麓に並べ、一方で勇士1千人を斧峴([[慶州市]]南東部?)の東に伏兵としておき、進撃してきた倭軍に不意討ちをかけて敗走させた
その間、百済の[[近肖古王]]からは[[366年]]、[[368年]]に使者を受け入れており([[羅済同盟]])、[[373年]]には百済の禿山城([[京畿道]][[安城市 (京畿道)|安城市]])の城主が領民300を率いて投降してきた。このとき百済からは国書を送って返還を求めてきたが、奈勿尼師今は「民草は、行きたいところへ行き嫌になれば去るというように、自分達の望むところに住まうものです。大王(百済王)は自らの民草の思いを配慮せず、私(新羅)を責めるのはいかがなものでしょうか」と答え、百済は何も言ってこなくなったという。
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