「円蔵寺」の版間の差分

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同名の寺院があるため
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: 江戸時代初期[[慶長]]のころ、当時の[[会津藩]]主、[[蒲生秀行]]は、柳津の[[只見川]]に遊びにきていたが、魚を大量にとってやろうと思い、上流の出倉(いずくら)付近から[[胡桃]]の皮、[[山椒]]、渋柿などを200人に背負わせて大量に流し込んだ。多くの魚はプカプカ浮き上がり、それを秀行はよろこんで見ていたらしい。付近の住民は「こんな殺生なことをして撥でもあたらないといいが」と言っていたという。言わずもがな翌年[[1611年]]夏に[[会津地震]]が発生、M6.9ともいわれ、円蔵寺の舞台は只見川に崩れ落ちたほか、[[若松城]]の天守も大きく傾き、[[石垣]]も崩壊したという。秀行は心労がつづいたのか翌年謎の早世をとげる。しかし、徳一が虚空蔵菩薩を刻んだ時の木片の化身といわれた魚渕のウグイは一尾も死ななかったといい、今も魚渕に大量の銀鱗を見ることができるのである。
; おぼだき観音伝説
: 江戸時代の[[元禄]]のころ、[[会津]]は高田の袖山(現・会津美里町箕作旭、袖山)というところに五代目馬場久左衛門という信心深い人がおり特に福満虚空蔵尊に信仰が厚かった。ある時、[[五穀豊穣]]と[[子孫繁栄]]を発願し、福満虚空蔵尊に丑の刻参りをしていたという。いよいよ満願の夜、[[羽織]]に[[手甲]]、新しい[[草鞋]]と身支度も万全、袖山から永井野、八反道を経て旧柳津街道(田澤通り)を進んだ。最後の早坂峠にさしかかった時、漆黒の闇にもかかわらず、辺りがぼーっと明るくなったかと思うと、一人の女にあう。散らし髪に白いほほ、久左衛門はおもわず息をのんだ。女が言うには「旅の方ちょうどよい、私はこのおぼ(乳呑み児)の世話で、長い間髪をゆう暇もありませんでした。しばしこの子を預かってはくださらんか?」「髪をゆう間、この子を泣かせずにあやしてくれたら褒美を授けましょう!」とのこと。平地2里、山道3里の道中でましてやこの刻、魔性の女であることは確信していた。久左衛門は古老から聞かされたことがハッと思い当たり、赤子に目を会わせないよう外向きに受け取ると、自分の羽織の紐を赤子の顔の前に垂らしてあやしていた。羽織の紐は左右の長さが違うのであるが、赤子は紐の先端を合わせようと夢中で引っ張り続けていたという。やがて東の空が白み始める頃、女の髪ゆいが終わり、「大変お世話になりました」という間もなく女は消え去り、久左衛門の手には赤子の代わりに金の重ね餅が握らせられていたという。これを持ち帰って、代々大事に取り扱ったところ、大分限者(長者)になった。久左衛門はのちに早坂峠(現-柳津森林公園)におぼ抱き観音をまつったのである。
 
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