「ヤン・ヤンセ・ウェルテフレー」の版間の差分

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m この「ジャカルタ」は当時オランダ管轄下の名称と併記します (WP:NPOV)。それはヤン・ヨーステンと、出島の記事に同様です。
m 「1595頃生まれた」は一般的表現でありません。ヤン・ヤンセとウェルテフレーという同一人物の呼称が混在して読みづらいと思われます。どちらでよいとも、同一記事内では片方に統一しましょう(私は便宜的にウェルテフレーで統一した)。また、括弧使用にも問題が見られます(WP:JPE#括弧類も参照)。
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'''ヤン・ヤンセ・ウェルテフレー''' ({{lang|nl|Jan Janse de Weltevree}}、[[1595年]] - 没年不詳) は、[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]出身の船乗りで、私掠船(海賊船)の水夫であり、おそらく[[朝鮮]]を訪問した最初の[[オランダ人]]の一人である。小銃製法の技術を持ち、[[女真族]]侵略の際に活躍した紅夷砲の製造と操作を伝えたとされる<ref>尹基老 [http://reposit.sun.ac.jp/dspace/bitstream/10561/313/1/v6p293_yoon.pdf 「西洋に対しての日本と朝鮮の対応の比較 - シーボルトとハーメルを手がかりに」]『県立長崎シーボルト大学国際情報学部紀要』第6号、[[県立長崎シーボルト大学]]、2005年</ref>。
 
朝鮮名は'''朴延''' (パク・ヨン) で、しばしば通訳も務め、鎖国時代の[[李氏朝鮮]]に土着した。彼の冒険は、[[オランダ東インド会社]]の[[会計士]]で1653年から1666年まで朝鮮に滞在した[[ヘンドリック・ハメル]]の報告により記録された。
 
==略歴==
ウェルテフレーは1595年ごろに生まれた。出生地は、ハメルによると{{仮リンク|デ・レイプ|en|De Rijp}}、他の情報源によると[[フラールディング]]である。彼は'Hollandia'という船に契約して雇われ、1626年3月17日[[オランダ領東インド]]へ発った。そこでは、彼は1627年に[[バタヴィア]](現在の[[ジャカルタ]])から'Ouwerkerck'という船で到着した。1627年7月16日、オランダの[[私掠船]]Ouwerkerckは、[[明|中国]]の[[アモイ]]港で係留されていた中国の[[ジャンク船]]を[[拿捕]]し、その乗組員150人を奴隷として売る目的で[[捕虜]]にした。70人の中国人はOuwerkerckに乗せられた。船の[[航海士]]ヤン・ヤンセ・ウェルテフレーと、オランダのデ・レイプから来たDirk Gijsbertsz、[[アムステルダム]]から来たJan Pieterse Verbaestは、13人の他のオランダの乗組員と一緒にジャンク船に乗り、[[フォルモサ]]の[[台南]]へ航海した。激しい夏の嵐に見舞われて、Ouwerkerckだけが安全な港に入港した<ref name=koreanhistoryproject>{{cite web |url=http://www.koreanhistoryproject.org/Ket/C14/E1402.htm |title=A Dutch Privateer in Joseon |publisher=Koreanhistoryproject.org |accessdate=February 16, 2012 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120210192557/http://www.koreanhistoryproject.org/Ket/C14/E1402.htm |archivedate=2012年2月10日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。
 
嵐に翻弄された中国のジャンク船は、不運な中国人とオランダ人乗組員を乗せて、朝鮮の西海岸沖の島の海岸に接近し、給水のために沿岸に近づいた。次に起こった事の詳細は不明だが、中国人は、5対1の人数の多さでオランダ人の生存者を圧倒し、ウェルテフレー、Dirk Gijsbertsz、Jan Verbaestを捕えて、朝鮮当局に彼らを引き渡した<ref name=koreanhistoryproject/>。
 
当時の[[李氏朝鮮]]は[[鎖国]]政策を採っていたので、捕虜となった彼らは朝鮮を離れることは許されなかった。ヤン・ヤンセウェルテフレーは'''パク・ヨン'''(朴淵/朴燕、{{lang|ko|박연}})という名前を付けられ、政府の重要な役人となった。彼は朝鮮人女性と結婚し、2人の子供を儲けた。
 
ウェルテフレーによると、他の2人は[[丙子の乱]]中の1636年に死亡した<ref>Gari Ledyard "The Dutch Come to Korea", page 26. Library of Congress Catalog Card Number: 70-177936</ref>。彼らは朝鮮軍として戦っていたと思われる。ハメルは朝鮮軍で、日本人や中国人からなる外国人部隊の隊長を務めていたとされる。
 
1653年に[[ヘンドリック・ハメル]]らが乗った'De Sperwer(デ・スペルウェール)'という交易船がジャカルタから[[台湾]]を経由して日本に向かう途中に[[難破]]した。船は朝鮮に漂着し、ヤン・ヤンセウェルテフレーが通訳者および相談役として派遣された。ただしこの際、20年にも渡り朝鮮に在住していたウェルテフレーはオランダ語に不自由になっており、ハメルらから改めて習い直している。この時に漂着したハメルら36人のオランダ人は、以降13年間朝鮮に幽閉され、虐待されたが、1666年に生き残っていた彼らのうち8人が[[長崎]]に逃亡した。ヘンドリック・ハメルは朝鮮での滞在について執筆し<ref>ヘンドリック・ハメル『朝鮮幽囚記』生田滋訳、[[平凡社]]〈東洋文庫〉、1969年、ISBN 978-4582801323</ref>、それによって現在我々がウェルテフレーについて知ることができる。のち日本(江戸幕府)の尽力により、生き残って朝鮮に抑留されていたうち、7名が日本を経由してオランダに引き渡された。
 
==遺産 ==
オランダのデ・レイプのグレート・チャーチの傍にヤン・ヤンセウェルテフレーの像がある。この[[レプリカ]]が1991年[[ソウル特別市|ソウル]]に設置された。
 
== 脚注 ==