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男子は[[日本]]・[[アメリカ合衆国]]・[[中華人民共和国]]等が、女子は[[ルーマニア]]・アメリカ合衆国・中華人民共和国等が強豪国として知られる。かつては[[ソビエト連邦]]・[[ドイツ民主共和国]](東ドイツ)も名を馳せた。
 
長身だと回転力が落ちるため、小柄な選手の方が総じて有利なスポーツである。そのため、男子は160cm台、女子は140cm台の選手も多い。主力選手が10代中心と低年齢化の進んだ女子においては、[[第二次性徴]]の発現とともに体格が大きく変わってしまい、選手としての能力面で旨みのある時期が終わってしまう等の理由から、身体が成長する前に年齢による出場資格の下限がある上位の国際大会に出場させるために[[年齢詐称|年齢を詐称]]させるという問題が存在し、たびたび問題となっている<ref>1980年代に活躍した[[ダニエラ・シリバシュ]](ルーマニア)が、2002年になって現役時代の年齢詐称を告白。近年では、[[2000年シドニーオリンピックにおける体操競技|シドニー五輪]]で[[中国|中華人民共和国]]女子選手の詐称が認定された [http://sankei.jp.msn.com/sports/other/100227/oth1002271058000-n1.htm] 他、[[2008年北京オリンピック|北京五輪]]でも同国の女子選手に詐称疑惑が起きた。</ref>。
 
一方、競技中・練習中に発生する事故により、死亡または[[頸椎]]・[[脊椎]]の損傷([[脊髄損傷]])による[[身体障害|重大な後遺症]]を受傷する事例も少なくない<ref>日本国内の調査では、1972年1月〜1974年1月の2年間に10名が事故死・13名が頸椎骨折などの重傷を負ったことが判明した(1974年7月30日読売新聞「事故防止で禁止ワザを通達」より)。国内では後に[[画家]]として知られる[[星野富弘]]が、国外では世界選手権優勝の[[エレナ・ムヒナ]](ソ連)が、それぞれ練習中の事故で身体障害を負ったことが特に有名である。</ref>、危険なスポーツでもある。このため年齢・性別による禁止技が設けられており、整った環境・補助の下で適切な指導を受けることが重要である。
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日本に器械体操が最初に導入されたのは、[[1830年]](天保元年)頃、[[高島秋帆]]による藩の新兵訓練とされている<ref name="yomi19600911">1960年9月11日 読売新聞「日本体操の歩み」</ref>。徴兵令施行により、[[日本軍]]の新兵訓練にも採用された。しかし入隊後の訓練期間が惜しいと、学校教育にも器械体操が採用されるようになった。
 
[[1932年]](昭和7年)、[[1932年ロサンゼルスオリンピック (1932年)|ロサンゼルス五輪]]に初参加したが、参加5ヶ国中最下位であった<ref name="yomi19600911"/>。しかし、これを機に国際大会への参加も相次ぎ、学生スポーツとして徐々に盛り上がりを見せた。
 
[[第二次世界大戦]]後数年は、国際的な連盟に加盟できず、オリンピック・世界選手権等には出場できなかった。しかし、この間に外国(アメリカ、ドイツ等)との交流試合を開催し、世界水準にまで成長した。[[1952年]](昭和27年)の[[1952年ヘルシンキオリンピック|ヘルシンキ五輪]]では団体5位はじめ種目別でもメダルを獲得。[[1960年]](昭和35年)には[[1960年ローマオリンピック|ローマ五輪]]にて男子団体優勝。以後約20年間の長期にわたり連覇を続け、さらに個人総合・種目別金メダルも多数獲得。文字通り、この時期の日本の体操は無敵と言えるもので、日本の体操は20年にわたり世界の頂点に君臨した。
 
ボイコット不参加となった[[1980年モスクワオリンピック|モスクワ五輪]]前後から選手の技能継承の失敗やエースの後継者育成の失敗などの要因で凋落。[[1984年ロサンゼルスオリンピック (1984年)|ロサンゼルス五輪]]以降は長らく世界選手権を含め金メダル獲得が無く、不振の時代を迎えた。特に[[1996年アトランタオリンピック|アトランタ五輪]]・[[2000年シドニーオリンピック|シドニー五輪]]はメダル無しに終わった(注:この間、世界選手権での銀・銅メダルはあった)。[[2000年]](平成12年)前後には不況の影響もあり、企業の部活が相次いで休部・廃部に追い込まれた。
 
しかし、[[2003年]](平成15年)に世界選手権種目別(鉄棒・あん馬)で金メダルを獲得、団体でも8年ぶりに表彰台に上がる等、復活の機運が見えはじめた。翌年の[[2004年アテネオリンピック (2004年)|アテネ五輪]]で28年ぶりに男子団体優勝を果たし、再び世界のトップレベルに返り咲いたことを強く印象付けた。以後、[[2008年北京オリンピック|北京五輪]]、[[2012年ロンドンオリンピック (2012年)|ロンドン五輪]]でも団体銀メダルを獲得する等、種目別・個人総合での優勝含むメダル獲得が続いている。2015年(平成27年)、[[2015年世界体操競技選手権|世界選手権大会(グラスゴー)]]で37年ぶりに世界選手権で男子団体優勝を果たした。
 
====年譜====
*[[1930年]](昭和5年)[[4月13日]]、[[全日本体操連盟]]創立
*[[1932年]](昭和7年)、[[1932年ロサンゼルスオリンピック (1932年)|ロサンゼルス五輪]]に初出場
*[[1939年]](昭和14年)10月、[[日本体操競技連盟]]設立
*[[1942年]](昭和17年)1月、全日本体操連盟と日本体操競技連盟が統合、 財団法人・大日本体育会体操部となる
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*[[1951年]](昭和26年)、[[国際体操連盟]](FIG)に正式加盟
*[[1954年]](昭和29年)、[[1954年世界体操競技選手権|世界選手権(ローマ)]]にて、[[竹本正男]]([[徒手]])・[[田中敬子]](平均台)が日本体操界初の世界選手権金メダル
*[[1956年]](昭和31年)、[[1956年メルボルンオリンピック|メルボルン五輪]]にて、[[小野喬]](種目別鉄棒)が日本体操界初のオリンピック金メダル
*[[1960年]](昭和35年)-[[1978年]](昭和53年)、[[1960年ローマオリンピック|ローマ五輪]]から[[1978年世界体操競技選手権|世界選手権(ストラスブール)]]まで、オリンピック五連覇を含む団体総合10連勝(V10)を達成。
*[[2001年]](平成13年)、[[対テロ戦争|世界情勢の悪化]]から世界選手権への選手派遣を中止
 
==主要な大会と競技種別==
===国際大会===
*[[オリンピック体操競技|オリンピック]]
*[[世界体操競技選手権]]
*[[FIG体操ワールドカップ]] ※廃止
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'''体操競技'''で'''難度'''は技や[[運動]]の難しさの程度を言う。跳馬を除き、男子はA~H、女子はA〜Iまであり、7または9段階に分類されそれぞれ0.1~0.7または0.9点が配点されている。そして男子は10個の技の点の合計が、女子は8個の技の点の合計が難度点(Difficulty Value)になる。演技価値点すなわち'''Dスコア'''(Difficulty)は難度点と構成要求(最大2.0)と組み合わせ加点の合計からなり、これに演技のできばえを示す'''Eスコア'''(Execution)が加えられ最終得点となる。本来難度はA~Cの3段階に分類されていたが、技術の進歩により[[1985年]]にはD難度、更に[[1993年]]にはE難度が導入された。しかしそれらをも上回るものが出てきたため、[[1998年]]から一時的に[[スーパーE]]が導入された後、[[2006年]]の規則改正に合わせてF難度、G難度が導入された。さらに[[2013年]]から採用される採点規則において、女子には新たにI難度が創設された。現在では難度が高い技ほど[[得点]]がのびやすいため難度の高い技を行う選手が増加している。
 
日常会話で使用され、「とっておきの大逆転技」という意味で用いられる'''ウルトラC'''であるが、[[1964年]]の[[前東京オリンピック|東京オリンピック]]で体操競技の強化委員を務めた[[上迫忠夫]]が、五輪前年の強化合宿で取材に答えて発し、これを[[デイリースポーツ]]が報じたのが初出とされる<ref>『デイリースポーツ三十年史』デイリースポーツ社、1978年、P49。</ref>。上記のように当時の難度はA,B,Cしかなく、当時の最高難度であったC難度よりもさらに難しい技という意味で使用されたとされるが、上迫の意図はむしろ「本来C以上のものもCに含まれていた」ため、そのようなものを区別するためにこの言葉で表現したという。
 
===技と技名・新技===
{{節スタブ}}
体操の技名は基本的に演技内容を粛々と述べただけのもの(例として[[ムーンサルト]]:鉄棒における後方2回宙返り1回ひねり下り)であるが、FIG(国際体操連盟)の定める国際大会で過去実施されたことのない新技を事前に申請した上で発表・成功すると、その技の通称として実施者の姓が技名として認定される。多くの技がこの名前で呼ばれ、[[1984年ロサンゼルスオリンピック (1984年)|ロサンゼルスオリンピック]]で[[森末慎二]]が発表した[[平行棒]]での後方棒上かかえ込み二回宙返り腕支持は'''モリスエ'''と呼ばれるなどしている。同一の人名の技が同名でその種目に存在する場合はそれぞれA,B,C...やII,III,IV...と語尾につけられる(例:シュテクリB・ゲイロードII)。
 
同一の人名が別々の種目につけられることもあり、[[山脇恭二]]が発表した技は[[あん馬]]での馬端から馬端への背面とび横移動、[[つり輪]]での前方かかえこみ二回宙返り懸垂があり、それぞれ'''ヤマワキ'''と呼ばれる。
 
なお、[[塚原光男]]が[[1972年ミュンヘンオリンピック]]で発表した[[鉄棒]]での月面宙返り下り、いわゆる[[ムーンサルト]]は'''ツカハラ'''と名付けられている。ムーンサルトの命名は、恩師である[[竹本正男]]([[ローマ五輪]]金メダリスト・元[[日本体育大学]]副学長)である。
 
他に、[[田中光 (体操選手)|田中光]]が[[1996年アトランタオリンピック]]に出場し[[平行棒]]においてオリジナル技「TANAKA」(懸垂前振りひねり前方かかえ込み2回宙返り腕支持:難度E)を発表し、認定されている。
 
新技を申請しFIGの定める国際大会で新技を成功させれば、コバチやトカチェフといった自らの姓がついた技を新技につけることができるのだが、もしも新技を失敗してしまうと、今後は誰がその同じ新技を国際試合で成功させようとも、その技に人の姓がつけられることはなく、その技には技の状態を表した長々とした名前だけが残る。ex:後方抱え込み3回宙返り3回ひねり下り(実在しない技)ただし、[[2016年リオデジャネイロオリンピック]]では、ブレットシュナイダーの平行棒の技と、[[イーゴリ・ラディビロフ]]の跳馬の4回宙の2つの技について、オリンピックでは成功しなかったが、後に同じ選手が挑戦して成功させれば名前がつく可能性があるとなっている。<ref>[http://www.fig-gymnastics.com/site/figNews/view?id=1651 Additionally, two elements not successfully performed in the men's competition will be published in the Men's Code of Points, though they will not be named for the gymnast who attempted them. If done well by their originators at a future competition, they may be named retroactively.] </ref>
 
2013年に[[白井健三]]が初めて成功した「後方伸身宙返り4回ひねり」が「シライ」となった。
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==その他==
{{雑多な内容の箇条書き|date=2011年10月}}
*[[1996年アトランタオリンピック]]で[[田中光 (体操選手)|田中光]]がこの時点で新技である'''ベーレ1/2ひねり'''を発表した際、彼がファンである[[X JAPAN]]からもじって、FIGに「ヒカルX」という名前を付けて貰うよう申請したが、却下されていたと本人が告白した話は有名である。
*体操競技で使用している鉄棒は、学校・公園にある鉄棒とは違い、良くしなる。
*[[TBSテレビ|TBS]]が放送している番組である、芸能人による[[筋肉番付|スポーツマンNo.1決定戦]]内での'''モンスターボックス'''種目(20段を超える跳び箱競技)では世界的な体操選手によるオープン戦も行われており、過去にはアレクセイ・ネモフや跳馬世界一であり、前転跳び2回宙返り半ひねりの技名にもなっているマリアン・ドラグレスクなど錚々たるメンバーも参加している。
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[[Category:体操競技|*]]
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