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[[ファイル:AGMA Hérodote.jpg |thumb|right|180px|ヘロドトスの胸像]]
'''ヘロドトス'''('''ヘーロドトス'''、{{lang-el-short|Ἡρόδοτος}}, Hēródotos、[[ラテン語|羅]]:Herodotus、[[紀元485484]]頃 - [[紀元420430頃<ref name="松平解説1972p373">[[#ヘロドトス 1972-2|松平 下]], p. 373</ref><ref name="桜井2006p12">[[#桜井 2006|桜井 2006]], p. 12</ref>)は、[[古代ギリシア]]の[[歴史家]]。今日まで伝されている最初古典古代の歴史書の中では最古である『[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]]』の著者執筆あることから名高くしばしば「[[歴史学|歴史]]の父」とも呼ばれる。
 
== 業績生涯 ==
彼の著作『歴史』の知名度・重要性に反して、ヘロドトス自身の人生について知られていることは少なく、[[東ローマ帝国|ビザンツ帝国]]で[[10世紀]]頃に成立した[[スダ]](スダ辞典)におけるヘロドトスと関連する事項への言及と[[古典古代]]の作家の断片的な言及、そしてヘロドトス自身の叙述から拾い集められる断片的な記述と以外の情報はほとんど無い<ref name="ベリー1966p38">[[#ベリー 1966|ベリー 1966]], p. 38</ref><ref name="松平解説1972p371">[[#ヘロドトス 1972-2|松平 下]], p. 371</ref>。
[[ドーリア人|ドーリア]]系ギリシア人であり、[[小アジア]]の[[ハリカルナッソス]](現[[ボドルム]])に生まれた。
 
スダによればヘロドトスは[[小アジア]]南部にある都市[[ハリカルナッソス]](現:[[トルコ]]領[[ボドルム]])の出身で、父親の名はリュクセス、母親の名はドリュオ(ロイオとも)であったという<ref name="松平解説1972p371"/>。また兄弟にテオドロスという人物がおり、従兄弟(または叔父)に当時高名な詩人[[パニュアッシス]]がいた<ref name="松平解説1972p371"/>。ハリカルナッソスがある地方は[[カリア]]と呼ばれており、この都市は前900年頃に[[ペロポネソス半島]]にある[[アルゴリス]]地方の都市[[トロイゼン]]から移民した[[ドーリア人|ドーリス]]系ギリシア人の植民市であった<ref name="松平解説1972p372">[[#ヘロドトス 1972-2|松平 下]], p. 372</ref><ref name="桜井2006p12"/>。しかし前5世紀にはハリカルナッソスの文化は[[イオニア人|イオニア]]化しており、ヘロドトス自身も[[古代ギリシア語]]のイオニア方言を話した<ref name="桜井2006p12"/><ref name="松平解説1972p372"/>。また、ギリシア人と土着のカリア人との間の通婚も盛んであり、ヘロドトスの父リュクセス、従兄弟(または叔父)のパニュアッシスもカリア系の名前である<ref name="桜井2006p12"/><ref name="松平解説1972p372"/>が、母ドリュオ(ロイオ)はギリシア語の名前である<ref name="松平解説1972p372"/>。ヘロドトスとテオドロスの兄弟もまた、ギリシア語による命名であることは明白である<ref name="松平解説1972p372"/>。ヘロドトスの出身家は名門であったようであり、詩人が身内にいることも彼の生まれ育った環境が知的・文化的に恵まれたものであったことを示す<ref name="桜井2006p12"/>。
ヘロドトスは[[ペルシア戦争]]後、諸国を遍歴して『歴史』(全9巻)を著した。『歴史』の記述は、ギリシアはもちろん[[ペルシア]]、[[リュディア]]、[[古代エジプト|エジプト]]といった[[古代オリエント]]世界の歴史や地理まで及ぶ。ヘロドトス自らが実際に見聞きしたことが集められており一見渾然としているが、それらがギリシアによるペルシア戦争勝利へのストーリー内で巧みに配置されており、読み物としておもしろい上にわかりやすく記されている。しかし、伝聞のためか疑わしい話も少なからず盛り込まれていることから「歴史」の信憑性が疑われることもあり、研究としての歴史は後に現れる[[アテナイ]]の歴史家、[[トゥキュディデス]]から始まったとみなす説もある。
 
ヘロドトスが故郷にいたころ、ハリカルナッソスは女傑として名高い[[アルテミシア1世]]の統治下にあった<ref name="松平解説1972p373"/>。ヘロドトスが彼女を深く尊敬していたことは『歴史』の描写から明確に読み取ることができる<ref name="松平解説1972p373"/>。その後アルテミシア1世の息子、または孫の[[僭主]][[リュグダミス]]がハリカルナッソスを支配するようになると、ヘロドトスとパニュアッシスは、リュグダミスに反対する政争に加わったが、パニュアッシスは殺害され、ヘロドトス自身も故国を追われ、[[サモス]]での亡命生活に入った<ref name="松平解説1972p373"/>。リュグダミスに対する反抗はその後も相次ぎ、恐らく前450年代初め頃に彼の政権は打倒された<ref name="松平解説1972p373"/>。この過程にもヘロドトスは関わったとする見解もある<ref name="松平解説1972p373"/>。
ヘロドトスはギリシアの神々の意志や神託の結果を尊重し、ギリシア人の立場から『歴史』を物語的叙述で著したが、この点はトゥキュディデスが著した実証的な『[[戦史 (トゥキディデス)|戦史]]』と対比的に捉えられている。
 
サモスにある程度の期間滞在した後、ヘロドトスは各国を訪れた<ref name="桜井2006p14">[[#桜井 2006|桜井 2006]], p. 14</ref><ref name="ベリー1966p38"/>。その過程と時系列は大雑把にしかわからないが、彼はまず[[アテナイ]]に行き、ついで前443年に[[イタリア半島|イタリア]]に建設された新植民市[[トゥリオイ]]に移住した<ref name="桜井2006p16">[[#桜井 2006|桜井 2006]], p. 16</ref><ref name="ベリー1966p38"/>。この都市はアテナイの支配者[[ペリクレス]]がギリシア各地から移民を集めて建設した都市であったがヘロドトスが参加した経緯は不明である<ref name="桜井2006p16"/><ref name="ベリー1966p38"/>。
『歴史』は[[ヨーロッパ]]で最も古い歴史書の一つであり、後世まで読み継がれた他、中世[[東ローマ帝国|ビザンティン]]時代のギリシア人たちもヘロドトスに倣った形式で歴史書を著した。現在でも古代ギリシア、古代オリエント、古代エジプトの歴史研究の上で欠かせない書物の一つとなっている。
 
彼がサモスを去ってから死亡するまでの間に、少なくとも[[アテナイ]]、[[キュレネ]]、[[クリミア]]、[[ウクライナ]]南部、[[フェニキア]]、[[エジプト]]、[[バビロニア]]などを旅したはずであるが<ref name="大戸2012p51">[[#大戸 2012|大戸 2012]], p. 51</ref><ref name="ベリー1966p39"/>、その具体的な年代をどこに当てはめるべきかは明確ではない。ただしエジプトとバビロニアを訪れたのは人生の晩年、少なくともトゥリオイの市民であった頃であろう<ref name="ベリー1966p39">[[#ベリー 1966|ベリー 1966]], p. 39</ref>。
なお、「エジプトはナイルの賜物」という言葉は、ヘロドトスの『歴史』(巻二、五)に記されているが、元は[[ミレトスのヘカタイオス|ヘカタイオス]]の言葉である(この「エジプト」は[[ナイルデルタ]]を指しており、デルタがナイル川の運ぶ泥が滞積したものであることは当時から知られていた)。
 
彼は[[ペロポネソス戦争]]勃発の頃(前431年)にはまだ生存していたと言われ、最後はトゥリオイで死亡したともアテナイに戻っていたとも言われるが、いずれも明確な証拠はない<ref name="桜井2006p16"/><ref name="ベリー1966p39"/>。
== 関連文献 ==
 
* [[松平千秋]]訳 『[[歴史 (ヘロドトス)|ヘロドトス 歴史]]』 [[岩波文庫]](全3巻、改版2006年)<ref>ワイド版も刊(2008年)、文庫初版は1971-72年、初刊は[[筑摩書房]]「[[世界古典文学全集]]10」</ref>
== 脚注著作 ==
{{main|歴史 (ヘロドトス)}}
[[File:POxy v0017 n2099 a 01 hires.jpg|thumb|right|[[オクシュリンコス・パピルス]] 2099から発見された『歴史』8巻断片。2世紀]]
ヘロドトスは現在では日本語で『歴史』、英語では''The Histories''と言うタイトルで知られる著作を残した。この作品冒頭でヘロドトスは以下のように著者名と執筆の目的、方法を書いている。
 
{{quotation|これは、ハリカルナッソスの人ヘロドトスの調査・探求(Ἱστορίαι ヒストリエー)であって、人間の諸所の功業が時とともに忘れ去られ、ギリシア人や異邦人(バルバロイ)が示した偉大で驚嘆すべき事柄の数々が、とくに彼らがいかなる原因から戦い合う事になったのかが、やがて世の人に語られなくなるのを恐れて、書き述べたものである。-『歴史』巻1序文、桜井訳<ref name="桜井2006p20">[[#桜井 2006|桜井 2006]], p. 20</ref>。}}
 
この文章は著述の方法として調査・探求(Ἱστορίαι、historia)という単語を用いた現存最古の用例である<ref name="桜井2006p20"/>。。最初に著者名を筆記し、執筆にあたっての主体性と責任の所在を明らかにするこの姿勢は、ヘロドトスに先行して各ポリスの伝承などを[[散文]]で綴っていた[[ロゴグラポイ]]と呼ばれる文筆家の一人、[[ミレトスのヘカタイオス]]を意識したものであったと見られる<ref name="大戸2012p53">[[#大戸 2012|大戸 2012]], p. 53</ref><ref name="桜井2006p20"/>。このような文章は前4世紀には10例ほどが知られており、ヘロドトスのそれはその中でも最古の部類に属する<ref name="大戸2012p53"/>。
 
ヘロドトスの『歴史』は全9巻からなるが、この9巻分類はヘロドトス自身によるものではなく、[[アレクサンドリア]]の学者によるものである<ref name="ベリー1966p39"/>。この作品はの体裁はヘロドトスが当初から構想していたものではなく、後から追補される際に整えられたものであると推定される<ref name="ベリー1966p40">[[#ベリー 1966|ベリー 1966]], p. 40</ref>。少なくとも最後の3巻部分は最初の6巻部分よりも先に作られていたことを示す各種の内部証拠が存在する<ref name="ベリー1966p40"/>。
 
この著作は現代風に解釈するならば一種の同時代史であり、その主題は全ギリシアを巻き込んだ[[ペルシア戦争]]であり、序文に記された戦いがこの戦争を指し、異邦人(バルバロイ)が[[ペルシア人]]のことであるのは当時を生きた人であるならば誤解の余地のないところであった<ref name="大戸2012p55">[[#大戸 2012|大戸 2012]], p. 55</ref>。
 
=== 執筆姿勢 ===
ヘロドトス自身には当時、現代的な意味での「歴史」を書くという明確な意識はなく、自らを歴史家とはみなしていなかったと考えられる<ref name="大戸2012p57">[[#大戸 2012|大戸 2012]], p. 57</ref><ref name="桜井2006pp25_26">[[#桜井 2006|桜井 2006]], pp. 25-26</ref>。ヘロドトスが用いた調査・探求(Ἱστορίαι ヒストリエー)というギリシア語の単語は[[英語]]のhistory(歴史)や[[フランス語]]のhistoire(歴史)の語源となったことは広く知られている<ref name="大戸2012p57"/>。しかし、『歴史』本文においてヘロドトスがこのhistoriaという単語を用いる時、基本的には「調査」もしくはその方法としての「尋問」という意味で使用されている<ref name="大戸2012p57"/>。つまり、ヘロドトス自身の意識としてはこの著作は現代の概念でいう「歴史」を書いたものではなく、「自身による研究調査結果」を語るものであった<ref name="大戸2012p57"/>。ただし[[柿沼重剛]]の指摘によれば、ヘロドトス以前にはhistoriaが意味する「探求」とは神話や系譜、地誌に関することであったが、ヘロドトスはこれを「人間界の出来事」にまで広げたという<ref name="大戸2012p58">[[#大戸 2012|大戸 2012]], p. 58</ref>。
 
彼が調査・探求して記した『歴史』は今日でいう「同時代史」に相当するものであり、当事者や関係者がまだ存命中の出来事についての記録であった<ref name="大戸2012p60">[[#大戸 2012|大戸 2012]], p. 60</ref>。そしてそのための探求の方法は現代の歴史研究の手法とは異なり、史料を確認し情報を収集するよりも、現地を回り関係者に聴取し、また自ら経験するのがその主たる手法であった<ref name="大戸2012p60"/>。
 
彼は自らの目で確認することに努めたが、不足する情報は伝聞や証言によって補った<ref name="大戸2012p61">[[#大戸 2012|大戸 2012]], p. 61</ref>。その中にはヘロドトス自身が疑わしいと考える情報も多々あったが、彼はそれを『歴史』に掲載している。このような執筆姿勢は以下のような記述からも明らかである。
{{quotation|この王についての(エジプトの)祭司の話はなお続き、右の事件の後ランプシニトスは、ギリシア人がハデス(冥界)の在るところと考えている地下へ生きながら下ったということで、ここでデメテルと骰子を争い、互いに勝敗のあった後、女神から黄金の手巾を土産に貰い、再び地上へ帰ったという。このランプシニトスの下界降りが起縁となって、彼が地上へ帰ってからエジプトでは祭を催すようになったという。(中略)このようなエジプト人の話は、そのようなことが信じられる人はそのまま受け入れればよかろう。本書を通じて私のとっている建前は、それぞれの人の語るところを私の聞いたままに記すことにあるのである。-『歴史』巻2§122-123、松平訳<ref name="松平訳1971§122-123">[[#ヘロドトス 1971|『歴史』巻2]] §122-123</ref>。}}
 
一方でこの態度は彼の著作中において徹底はしておらず、採録の基準は曖昧であったし、神々と人間との関わりのような問題についてもはっきりと首尾一貫した哲学的姿勢を持っていたわけではない<ref name="ベリー1966pp45_51">[[#ベリー 1966|ベリー 1966]], pp. 45-51</ref>。ヘロドトスは英雄時代の歴史に立ち入ることはなく、しばしば触れる神話的伝承についても懐疑的な姿勢を取り、神々がかつて人間と交わったという説話や神の出現と言った出来事を事実として承認することはしなかった。だがこの姿勢はしかし神話を明確に拒絶するほど徹底したものでもなかった<ref name="ベリー1966pp45_51"/>。ヘロドトスはまた、こうした神話的な説話に対して時折風刺を加えてもいる<ref name="ベリー1966pp45_51"/>。
{{quotation|テッサリアの住民自身のいうところでは、ペネイオスの流れているかの峡谷は、神ポセイドンの作られたものであるというが、もっともな言い分である。というのは地震を起こすのがポセイドンで、地震による亀裂をこの神の仕業であると信ずる者ならば、かの峡谷を見れば当然ポセイドンが作られたものであるというはずで、私の見るところ、かの山間の亀裂は地震の結果生じた物に相違ないのである。-『歴史』巻7§129、松平訳<ref name="松平訳1972§122-123">[[#ヘロドトス 1972-2|『歴史』巻7]] §129</ref>。}}
 
また、ローマ時代の[[プルタルコス]]や[[エウセビオス]]によれば、ヘロドトスは『歴史』の内容を各地で口演していたという。このヘロドトスが聴衆に向けて語り聞かせていたという情報は事実であると考えられ、このことが聴衆を楽しませるための様々な説話・余談の挿入、本筋からの脱線という『歴史』の特徴を形作ったとも考えられる<ref name="大戸2012p74_77">[[#大戸 2012|大戸 2012]], pp. 74-77</ref>。
 
== 評価 ==
ヘロドトスは歴史叙述の成立過程、[[史学史]]において必ず言及される人物であり、しばしば「歴史の父(''pater historiae'')」と呼ばれる。彼をこう呼んだ最初の人物は[[古代ローマ]]の政治化・哲学者である[[キケロ]]である<ref name="大戸2012p58">[[#大戸 2012|大戸 2012]], p. 58</ref>。キケロは著作の『法律について』の一節でヘロドトスをこのように呼んでいるが、それがなぜなのかについて理由を説明していない<ref name="大戸2012p58"/>。[[大戸千之]]はもしキケロに代わって説明するならば、ヘロドトスが「歴史の父」と呼ばれる理由は以下のようなものであるという。それはヘロドトスが著作において、執筆者とテーマ(ペルシア戦争の調査研究)を明示したこと、そしてその調査研究手法として「自らできる限り調査する」「情報を突き合わせ吟味・検討する」「調査結果を正確に報告し、直接的な情報と間接的な情報の弁別、情報に対する自身の評価、自分が信じる情報と信頼はしないが重要な情報の区別」といった後の歴史研究の基本に通じる姿勢を持っていたことによるのである<ref name="大戸2012pp58_59">[[#大戸 2012|大戸 2012]], pp. 58-59</ref>。
 
また、ギリシアでは既にヘロドトスの没後100年あまりの間に、詩とは異なる「歴史」というジャンルは明確に確立されており、早くも前4世紀に生きた[[アリストテレス]]はヘロドトスを歴史家として分類し、以下のような有名な言葉を残している。
{{quotation|歴史家と詩人は、韻文で語るか否かという点に差異があるのではなくて-事実、ヘロドトスの作品は韻文にすることができるが、しかし韻律の有無にかかわらず、歴史であることにいささかの代わりもない-、歴史家はすでに起こったことを語り、詩人は起こる可能性のあることを語るという点に差異があるからである。-『詩学』第9章、松本・岡訳<ref name="桜井2006pp26-27">[[#桜井 2006|桜井 2006]], pp. 26-27</ref>。}}
 
こうして歴史家として称えられたヘロドトスの『歴史』は名著の誉れ高く、失われることなく、また名声を損なうことなく現代まで伝えられた古典古代の「歴史書」の中では最古のものである<ref name="ベリー1966p38"/>。
 
一方でヘロドトスに対しては、荒唐無稽なエピソードをむやみに掲載することや、余談や脱線があまりに多く作品の全体構成や叙述がアンバランスでまとまりが悪いこと、「聞いたままに記す」というその姿勢が正確さを追求しないための逃げ口上である、というような批判が古くからされてきた<ref name="大戸2012p71">[[#大戸 2012|大戸 2012]], p. 71</ref>。具体的には、ペルシア戦争をテーマにして『歴史』を書いたにもかかわらず、全9巻のうち、第5巻まで延々と各国の神話・伝説・歴史の叙述が続き、前史の部分があまりに冗長であることや、話としては面白くともほとんど事実とは考え難いような話があまりに多く掲載されていることなどが常に批判の対象となっている<ref name="大戸2012p71">[[#大戸 2012|大戸 2012]], p. 71</ref>。
 
このような批判は既に古代から行われていた。ヘロドトスを「歴史の父」と呼んだキケロはの文章は「歴史の父であるヘロドトスや[[テオポンポス]]には無数の作り話(''fabulae'')があるが」というものであるし<ref name="桜井2006p41">[[#桜井 2006|桜井 2006]], p. 41</ref>、アリストテレスはヘロドトスが伝えたライオンの出産についてのアラビア人の話を「馬鹿げている」と評している<ref name="大戸2012p72">[[#大戸 2012|大戸 2012]], p. 72</ref>。さらに古く、小アジア出身の医師で[[アケメネス朝]](ハカーマニシュ朝)に仕えた[[クテシアス]]はヘロドトスを「嘘つき」と批判していたことが伝わっており、以降の古代ギリシアの歴史家たちの間では、「実証的な」描写で名高い[[トゥキュディデス]]と比較されヘロドトスの評価はかなり厳しいものであったとも言われる<ref name="桜井2006p42">[[#桜井 2006|桜井 2006]], p. 42</ref>。近現代においても、『[[ローマ帝国衰亡史]]』で名高い[[イギリス]]の歴史学者[[エドワード・ギボン]]は、ヘロドトスが話として面白いエピソードをふんだんに交えていることについて、「ある時は子供のために、ある時は哲学者のために書いている」と評している<ref name="大戸2012p73">[[#大戸 2012|大戸 2012]], p. 73</ref>。
 
だが、トゥキュディデスもまた現代の歴史学の研究においては単純に信用できるものとはされておらず、古代人によるヘロドトスへの批判はそれ自体が事実誤認によるところがあったという指摘もあり、現代ではヘロドトスの復権は著しい<ref name="桜井2006p42"/>。ヘロドトスの記述のうち古代ギリシアの地誌に関する研究においては、その信憑性の高さを認める見解も存在する<ref name="桜井2006p43">[[#桜井 2006|桜井 2006]], p. 43</ref>。
 
総体としてはヘロドトスは、明確な問題意識の設定、能動的な情報収集、情報自体の批判・検証、公平な立場から事物の推移・原因を考える姿勢などを打ち出したことから、彼の著作『歴史』は歴史学の誕生を告げるものである評価される<ref name="大戸2012p86">[[#大戸 2012|大戸 2012]], p. 86</ref>。歴史学者大戸千之はヘロドトスの評価について以下のようにまとめている。
{{quotation|歴史学は、事実を語るために情報を収集し、それらを批判的に検討する営為である、ということができる。ヘロドトスの仕事は、その鏑矢といってよい。今日的観点からすれば、先立つ語りの伝統<ref group="注釈">聴衆の存在を前提に、様々な挿話によってその関心を惹きつける[[ホメロス]]以来の伝統的な事物の語りの伝統。</ref>の殻を抜けきれておらず、批判的検討にもナイーヴすぎるところがある点は蔽えないけれども、歴史学の第一歩を踏み出した栄誉は、彼にあたえられるべきであると考えたい<ref name="大戸2012p86_87">[[#大戸 2012|大戸 2012]], pp. 86-87</ref>。}}
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
 
=== 参考文献 ===
* {{Cite book |和書 |author=[[ヘロドトス]] |others=[[松平千秋]]訳 |title=[[歴史 (ヘロドトス)|ヘロドトス 歴史]] 上 |publisher=[[岩波書店]] |series=[[岩波文庫]](全3巻、改版2006年)< |date=1971-12 |isbn=978-4-00-334051-6 |ref>=ヘロドトス 1971 }}(ワイド版も刊(2008年)、文庫初版は1971-72年、初刊は[[筑摩書房]]「[[世界古典文学全集]]10」</ref>
* {{Cite book |和書 |author=[[ヘロドトス]] |others=[[松平千秋]]訳 |title=[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]] 中 |publisher=[[岩波書店]] |series=[[岩波文庫]] |date=1972-1 |isbn=978-4-00-334052-3 |ref=ヘロドトス 1972-1 }}
* {{Cite book |和書 |author=[[ヘロドトス]] |others=[[松平千秋]]訳 |title=[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]] 下 |publisher=[[岩波書店]] |series=[[岩波文庫]] |date=1972-2 |isbn=978-4-00-334053-0 |ref=ヘロドトス 1972-2 }}
* {{Cite book |和書 |author=[[大戸千之]] |title=歴史と事実 ポストモダンの歴史学批判をこえて |series=学術選書057 |publisher=[[京都大学|京都大学学術出版会]] |date=2012-11 |isbn=978-4-87698-857-0 |ref=大戸 2012 }}
* {{Cite book |和書 |author=[[桜井万里子]] |title=ヘロドトスとトゥキュディデス |series=ヒストリア023 |publisher=[[山川出版社]] |date=2006-5 |isbn=978-4-634-49194-6 |ref=桜井 2006 }}
* {{Cite book |和書 |author=J.B.ベリー|translator=[[高山一十]] |title=古代ギリシアの歴史家たち |publisher=[[修文館]] |date=1966-4 |isbn=978-4-87964-025-3 |ref=ベリー 1966 }}(1990年4月改訂版)
 
=== 関連文献 ===
* [[藤縄謙三]] 『歴史の父 ヘロドトス』([[新潮社]] 1989年)
** 新装版『ヘロドトス』(魁星出版 2006年)
21 ⟶ 80行目:
* [[中務哲郎]] 『ヘロドトス「歴史」――世界の均衡を描く 〈書物誕生〉』 ([[岩波書店]] 2010年)
 
== バビロンの結婚市場 ==
2012年夏現在、世界の金融市場では金融緩和が進み、欧州では基準とされる金利の数字がマイナスへ転じる、未曾有の状態になっている。金利がマイナスになる事態は考えにくいことであった。これに関連し、ヘロドトスの「バビロンの結婚市場」が、次のような文脈で例示として取り上げられている<ref>日経ヴェリタス2012年7月29日号57面ブロゴスフィア</ref>。
「同じ財が同じ市場で正と負の両方の価格で売られる事例は、古代ギリシャの歴史家ヘロドトスが記した『バビロンの結婚市場』がある。花嫁候補を美しい順に並べると、最初は正の価格がつくが、一線を越えれば負の価格(持参金)がつく。」
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/> 
 
== 関連項目 ==