「普化宗」の版間の差分

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[[1249年]](建長6年)日本から中国([[南宋]])に渡った'''[[心地覚心]]'''が、中国普化宗16代目[[張参]]の弟子である'''宝伏'''・'''国佐'''・'''理正'''・'''僧恕'''の4人の在家の居士を伴い、[[1254年]]に帰国することで、日本に伝わった。[[紀伊国|紀伊]]由良の[[興国寺 (由良町)|興国寺]]山内に普化庵を建て居所とした。4人の帰化した居士は、それぞれ4人の法弟を教化し16人に普化の正法を伝え、16の派に分かれていた。後に宝伏の弟子の2人(金先、括総)の派が盛んになり、他の派は滅びてしまったり、両派を[[触頭]]として支配下に入り存続した。
 
心地覚心の法孫にあたる靳全(金先古山居士)がでて、[[北条経時]]の帰依を受け、[[下総国]]小金(現在の[[千葉県]][[松戸市]]小金)に金龍山梅林院[[一月寺]]を開創し、金先派総本山となった。一方、括総了大居士は武蔵野国幸手藤袴村(現在の[[埼玉県]][[幸手市]])に廓嶺山虚空院[[鈴法寺公園|鈴法寺]]を開創し、括総派総本山となり、一月寺と共に普化宗末寺120あまりの触頭となった。
 
'''普化宗'''を公称し、一つの宗派として活動するのは、近世に入ってからである。