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江戸時代前期の[[江戸]]の市中においては、まだ[[麺類]]としての蕎麦(蕎麦切り)が普及しておらず、[[蕎麦がき]]などの形で食べられていたことから、江戸でも麺類としては人気があったようである。蕎麦きりの元祖は[[信州そば]]であり(蕎麦切りの最古の記録は、[[天正]]2年([[1574年]])に[[木曽]]の[[定勝寺]]で落成祝いに蕎麦切りを振る舞ったというもの)、これが[[信濃国|信州]]から[[甲州街道]]や[[中山道]]を通して江戸に伝えられたものとされる。蕎麦きりが普及すると、蕎麦と蕎麦屋が独自の文化を育む母体となっていったこと、[[脚気]]防止のために[[冷害]]にも強い蕎麦が好まれたことなどの理由により、確かに、蕎麦が広がったことは事実であるが、現在の[[関東地方]]でも、[[武蔵野]]や[[群馬県]]を中心として、「[[武蔵野うどん]]」や「[[水沢うどん]]」をはじめとするうどん専門店も多い<ref>JR東日本「伝統を味わう武蔵野うどん」[http://www.jreast.co.jp/hachioji/ensen/archive/report_12.html] </ref>。実際、[[2004年]]([[平成]]16年)度のうどんの生産量でも1位は日本全国に向けて宣伝をしている[[讃岐うどん]]の[[香川県]]だが、2位は[[埼玉県]]であり、群馬県もベスト5に入っている<ref>香川県庁のサイトより[http://www.pref.kagawa.jp/toukei/zuiji/udon/files/udondr04.xls]</ref>。これらの地域では[[二毛作]]による[[コムギ|小麦]]栽培が盛んで、日常的な食事であり、かけうどんや付け麺(もりうどん)にして食べられることが多い。
 
[[天正]]12年([[1584年]])に大坂で「砂場」という蕎麦屋が開業した記録があるなど、[[近畿地方]]でも早い時期から蕎麦が食べられており、蕎麦きりも普及していった。[[近畿地方]]では「そば屋」よりも「うどん屋」が多いが、[[京都]]では近隣の[[丹波国|丹波]]地方で蕎麦作りが盛んだったため蕎麦文化も根付いており、専門の「そば屋」も多い上に[[にしんそば]]は京都の名物ともなっている。「[[出石そば]]」をはじめとする近畿北部の蕎麦文化は、江戸時代に信州から導入されたものだという。讃岐を除く西日本の大部分の地域では、大阪や京都、福岡、鳴門など腰が弱めでつゆ(大阪では調味済みのつゆを[[出汁]]([[だし]])と呼ぶことがあるが、出汁とは昆布や鰹節からうまみを抽出したものであり、つゆは出汁に醤油やみりんなどの調味料を加えたものである。大阪など一部の地域で混同して呼ばれていることが見受けられる)を吸いやすい、柔らかい麺が好まれている([http://wadaman.com/modules/column/index.php?content_id=26 柔肌の大阪うどん]より)。また、関西ではかやくご飯(炊き込み飯で、二番出汁を有効活用したもの)と一緒に供することも多く、うどんは吸い物の感覚として好まれている。一方、蕎麦はツユを吸わせて食べるようなものではないためこのようなつゆとの相性は良くないとされるが、関西のうどん屋や定食屋では慣れ親しんだうどんつゆで蕎麦を提供する店も見られる。
 
=== 日本うどん学会 ===