「斎藤三郎 (文学・野球研究者)」の版間の差分

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総合雑誌『経済往来』の編集も行っていたという部分は後年に書かれた弘田正典の『斎藤三郎著作目録』で同姓同名の編集者の可能性も指摘
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|画像説明 = 斎藤三郎(1929年)
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1895|8|26|no}}
|生誕地 = {{JPN}}<br/>[[長野県]][[下高井郡]][[市川村 (長野県)|市川村]](のちの[[野沢温泉村]])虫生
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1895|8|26|1960|2|2}}
|死没地 = {{JPN}}<br/>[[東京都]][[文京区]]高田老松町
|死因 = [[心臓発作]]
|出身校 = 市川村立市川[[尋常高等小学校]]高等科
|職業 = [[寿司|すし]]職人<br/>「[[新国劇]]」劇団員<br/>[[古書店|古本屋]]店主<br/>[[スポーツライター]]<br/>[[ノンフィクション作家]]<br/>書籍[[編集者]]<br/>「[[野球殿堂博物館 (日本)|野球体育博物館]]」の[[嘱託社員|嘱託]]
|活動期間 = [[1930年]]ごろ - [[1960年]]
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== 経歴 ==
[[1895年]]([[明治]]28年)[[8月26日]]に[[日本]]の[[長野県]][[下高井郡]][[市川村 (長野県)|市川村]](のちの[[野沢温泉村]])虫生に生まれる<ref name="日外アソシエーツ弘田14">[[#日外アソシエーツ(2004)弘田(2008)|日外アソシエーツ(2004)弘田(2008)]] p.109314</ref>。小学生ですでに[[野球]]をプレーしていた<ref name="君島188">[[#君島(1972)|君島(1972)]] p.188</ref>。1910年(明治43年)3月に市川村立市川[[尋常高等小学校]]高等科{{#tag:ref|市川小学校は2007年に野沢温泉小学校と統合した<ref>{{Cite web|url=http://www.vill.nozawaonsen.nagano.jp/living/W003H0000033.html|title=野沢温泉村 くらしの情報 > 子育て・教育 > 野沢温泉小学校|publisher=[[野沢温泉村]]役場|accessdate=2018-09-21}}</ref>。|group=#}}を卒業した後<ref name="弘田14" />、1913年([[大正]]2年)に[[東京市|東京]]に移り住むする<ref name="昆">[[#昆(1978)|昆(1978)]] p.71</ref>。[[早稲田]]の[[寿司屋|すし屋]]で働きながら地元の草野球チームの[[投手]]をやっていた<ref name="東田24">[[#東田(1989)|東田(1989)]] p.24</ref><ref name="長山210">[[#長山(1997)|長山(1997)]] p.210</ref>。
 
1923年(大正12年)に[[澤田正二郎|沢田正二郎]]に[[スカウト (勧誘)|スカウト]]されて「[[新国劇]]」に入団する<ref name="日外アソシエーツ">[[#日外アソシエーツ(2004)|日外アソシエーツ(2004)]] p.1093</ref>。野球のない日は大道具係を務めていた<ref name="東田24" />。1929年([[昭和]]4年)まで文芸部に在籍して野球チームの選手としてプレーしている<ref name="日外アソシエーツ" />。新国劇の野球部では主将兼投手で、[[捕手]]の[[サトウハチロー]]([[詩人]]兼[[作家]])と[[バッテリー]]を組んでいた<ref>[[#サトウ(1949)|サトウ(1949)]] p.108</ref>。新国劇時代に唯一書いた[[脚本]]である『早慶戦時代』は舞台上映されてヒットし、映画化もされている<ref name="長山210" />。1929年に執筆さた日本初の本格的な野球演劇であり<ref name="弘田14" />、[[早慶戦]]のトラブルを描いた野球劇だったている<ref name="2006年横田20">[[#横田(2006)|横田(2006)]] p.20</ref>。[[早稲田大学]]の投手、高野のモデルとなった人物の仕草や癖までを的確に演出し、腕時計をポケットに入れておいて時々出して時間を見たり、歩き方などもそっくりに描かれ、同行したモデルの父親がいたく感心していたという逸話も残されている<ref>[[#横田(2006)|横田(2006)]] p.21</ref>。1929年に新国劇を辞めると、[[尾上菊五郎 (6代目)|六代目尾上菊五郎]]の野球チーム「ナイン・スターズ」の指導をするようになった<ref name="長山210" />。
 
1930年(昭和5年)ごろから[[石川啄木]]と[[野球の歴史|野球史]]の研究を志す<ref name="日外アソシエーツ" />。ある日、ふとしたことから書簡集を手にしたのが啄木の研究に没頭していくきっかけとなった<ref name="長山210" />。啄木関連の文献資料を収集して、1942年(昭和17年)に長年にわたり自身が収集した啄木の作品や啄木について書かれた著作をまとめた『文献石川啄木』二巻(正・続)を刊行した<ref name="日外アソシエーツ" /><ref name="昆"[[#弘田(2008)|弘田(2008)]] p.8</ref>。[[戦後]]は[[岩波書店]]版『啄木全集』(1953‐54)(1953-54){{#tag:ref|[[国立国会図書館]]提供:第1巻{{全国書誌番号|56008571}}、第16巻{{全国書誌番号|56008584}}、別巻{{全国書誌番号|48015483}}。1961年に新装版が発行された。|group=#}}の[[編集]]・[[校正|校訂]]を行ったほか、啄木の故郷である[[岩手県]]に暮らす人たちが見た「生前の啄木の真実の姿」を浮かび上がらせようとした『啄木と故郷人』(1946)<ref>[[#弘田(2008)|弘田(2008)]] p.8-9</ref>啄木に関係の深い場所を訪れてその人間性を追求した『啄木文学散歩』(1956)<ref>[[#弘田(2008)|弘田(2008)]] p.9</ref>の著書がある<ref name="昆" />。
 
野球文献を集めるため1935年(昭和10年)ごろに[[古書店|古本屋]]「明星堂書房」<ref name="弘田14" />を開き、そ業したは野球文献を集め結果1939年(昭和14年)にその集大成として『日本野球文献解題』を50部限定で印刷した<ref>[[#木村(1962)|木村(1962)]] p.10</ref>。収集した野球書の中の明治・大正期における単された野球書籍174冊<ref>[[#弘田(2008)|弘田(2008)]] p.6</ref>の一切に見聞をくわえ、それに簡単な[[注釈]]を施した非売品である<ref>[[#野口(1953)|野口(1953)]] p.220</ref>。また、斎藤は日本に野球が伝来したのは1872年(明治5年)だとする説を主張している。彼はまず、1939年12月の『[[読売新聞]]』の連載記事「野球の渡来年代に就て」で初めてこの説を発表したが民間研究者だったこともあり、当時は何の反響もなかった<ref>[[#弘田(2008)|弘田(2008)]] pp.6-7</ref>。1943年(昭和18年)にも『[[野球界|野球と相撲]]』専門雑の連載記事「明治5年説」を展開する<ref name="弘田145">[[#弘田(1999)|弘田(1999)]] p.145</ref>。さらに、1952年(昭和27年)3月号から開始した『読売スポーツ』誌の連載記事「野球文献史話」のなかでも、明治5年説の実証と従来の「明治6年説」の誤りを論証した<refて、野球史研究家の[[君島一郎 name="弘田145" />(野球研究者)|君島一郎]]との交友が始まるきっかけとなっている<ref>[[#君島(1972)弘田(2008)|君島(1972)弘田(2008)]] p.1877</ref>。俳人の[[正岡子規]]が1896年(明治29年)7月に新聞『[[日本 (新聞)|日本]]』に3回にわたり掲載した、日本野球黎明期史「松蘿玉液(しょうらぎょくえき)」に、野球の渡来について触れたところ、「好球生」という人から「野球の来歴」という投稿があった。その中で好球生は子規の思い違いを指摘し、さらに「そもそもベースボールの初まりは明治五年の頃なりし」としていた。この「野球の来歴」は7月22日に掲載されたが、その後に明治6年渡来説が別人により唱えられ、徐々に有力視させるようになっていた。斎藤は好球生と、その言の真実性を検証し、[[ホーレス・ウィルソン]]がこの年に初めて日本に野球を伝えたとする明治5年説を提唱している<ref>[[#横田(2006)|横田(2006)]] pp.21-22</ref>。
 
啄木研究家の[[川並秀雄]]は「斎藤君は、せまい一室を借りて、うずたかく積み上げた書物にとりかこまれて、小さな机で謄写版の原紙を切って古書目録をつくり、[[通信販売]]をやりながら細々と一人暮しをして、野球の資料と明治文学関係のものを集めていた」と回想している<ref>[[#川並(1992)|川並(1992)]] p.115</ref>。1952年に野球史研究家の[[君島一郎 (野球研究者)|君島一郎]]が家を訪れたときには、「男やもめ暮し」で「大分くたびれた和服を無造作に着て、無精髭をのばして」おり、『子規全集』の[[編纂|編さん]]に従事していたという<ref name="君島187‐188">[[#君島(1972)|君島(1972)]] pp.187-188</ref>。
 
野球資料室の構想を抱いていた斎藤の夢は「[[野球殿堂博物館 (日本)|野球体育博物館]]」として実現する<ref name="弘田145" />。1959年(昭和34年)に博物館が開館後すぐに[[嘱託社員|嘱託]]として勤務したが<ref name="城井98">[[#城井(1988)|城井(1988)]] p.98</ref>、それから間もなく<ref name="君島189">[[#君島(1972)|君島(1972)]] p.189</ref>、翌[[1960年]](昭和35年)[[2月2日]]に死去[[東京都]][[文京区]]高田老松町の自宅で急逝する。{{没年齢|1895|8|26|1960|2|2}}<ref name="日外アソシエーツ弘田14" />。[[心臓発作]]のため、自宅のこたつに当たったまま、[[心臓発作]]で亡くなっている<ref name="城井98" />。
 
== 功績 ==
斎藤は日本への野球の伝来の年について、その後に定説となった「明治5年説」を最初に提唱したのも斎藤であている<ref name="弘田145" />。斎藤は野球史研究の先駆者として、それまでのあいまいな言い伝えではなく、書き残された資料によって、[[日本人]]が国内で初めて野球をプレーした時期を証明した<ref>[[#横田(2006)|横田(2006)]] p.18</ref>。書物だけでは実感できないと明治時代の野球選手に体験談を聞いたり、戦時中さえ研究旅行を繰り返している<ref name="弘田145" />。野球への感謝と恩返しの気持ちから野球史を志したと語っている<ref name="弘田145" />。しかし、肩書きの民間研究者にすぎない斎藤の明治5年渡来説を受け入れる者はほとんどおらず、それが広く受け入れられるようになるのは彼が亡くなってから12年後、君島一郎の『日本野球創世記』(1972年)が出版されてからである<ref name=">[[#弘田145"(2008)|弘田(2008)]] p.13</ref>。同じく野球史研究家の弘田正典は長年の研究の結果、2000年([[平成]]12年)に明治5年渡来説は正確であると断言している<ref>[[#横田(2006)|横田(2006)]] p.17,20</ref>。
 
『日本野球創世記』の君島一郎は1952年に「野球文献史話」を読んで明治5年渡来説を唱えた点に興味をひかれ、斎藤と初めて対面したが、集めてある資料が豊富なことと、野球に対する愛好と情熱が高いことに感心しており<ref name="君島187‐188" />、同書の[[奥付]]に「執筆にあたっては斎藤三郎筆の文献史話に負うところは多い。見解の相違もあるが、色々ヒントも得ている」「今後もしも日本野球の故事探求の志を有する方々があったら、是非にも彼斎藤三郎の二つの作(「野球殿堂博物館」に所蔵されている「野球文献史話」と『日本野球文献解題』)を一読されんことをお勧めする」と書いている<ref name="君島189" />。また、明治文化史研究家の[[横田順彌|横田順弥]]も「啄木と野球史に関しては、以後も斎藤以上の研究家の出現を見ていないといって過言ではない」と述べている<ref>[[#横田(1993)|横田(1993)]] p.73</ref>。
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野球殿堂博物館に所蔵されている明治・大正・昭和前期の資料の半分は彼の蔵書といわれているが<ref name="2006年横田20" />、彼自身の黎明期日本の野球の著作に関しては、研究をまとめた薄冊のメモ書き程度のものを2冊、非売品として残しているだけである<ref>[[#横田(2006)|横田(2006)]] p.18</ref>。なお、あとの半分は早稲田大学の名投手で[[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]入りもしている、[[宝塚運動協会|日本最初のプロ野球チーム]]の創設者である[[河野安通志]]の蔵書といわれる<ref name="2006年横田20" />。
 
石川啄木研究家の[[近藤典彦]]は『文献石川啄木』(1942年)について「啄木研究・享受冬の時代の別格の業績である」と絶賛している<ref>[[#近藤(1992)|近藤(1992)]] p.100</ref>。啄木の足跡を丹念に追い、それまで知られていなかった啄木の歌を数十首ほど探し出し、決定版ともいえる[[和歌集|歌集]]を編さんしている<ref name="長山210" />。『啄木全集』(1953-54年の岩波書店版)の17巻すべてで解説を担当しているが<ref>[[#横田(1993)|横田(1993)]] p.72</ref>、川並秀雄は同書について、1939年に出版された[[吉田孤羊]]編集の[[改造社]]版『啄木全集』を「(斎藤が)何ら疑うことなくそのまま収録し、[[伏字]]のところは全く異なった想像に従って出版したものである」と指摘している<ref>[[#川並(1992)|川並(1992)]] p.92</ref>。
 
== 著書 ==
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*『啄木と故郷人』([[光文社]]、1946年。{{ASIN|B000JA66JA}})
*『啄木文学散歩 啄木遺跡を探る』(角川新書、1956年。{{ASIN|B000JAZ3W6}})
 
== 注釈 ==
{{Reflist|group=#}}
 
== 出典 ==
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* {{cite journal|和書|author=弘田正典|title=斎藤三郎 知の源流|year=1999|month=11|journal=歴史読本|publisher=新人物往来社|ref=弘田(1999)}}
; 書籍
* {{Cite book|和書|author=弘田正典|title=野球史と啄木と 齋藤三郎の世界|year=2008|publisher=私家版|ref=弘田(2008)}}{{全国書誌番号|23086258}}
* {{Cite book|和書|title=20世紀日本人名事典|year=2004|publisher=[[日外アソシエーツ]]|isbn=978-4816918537|ref=日外アソシエーツ(2004)}}
* {{Cite book|和書|author=[[君島一郎 (野球研究者)|君島一郎]]|title=日本野球創世記 創始時代と一高時代|year=1972|publisher=[[ベースボール・マガジン社]]|asin=B000J9MVMM|ref=君島(1972)}}