「澶淵の盟」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
超プロ住民 (会話 | 投稿記録)
承天太后も指揮官として参戦している。
編集の要約なし
1行目:
{{出典の明記|date=2013年1月}}
{{記事名の制約|title=澶淵の盟}}
'''澶淵の盟'''(せんえんのめい、澶は氵に亶)は、[[1004年]]に[[北宋]]と[[遼]]の間にて結ばれた盟約である。国境の現状維持、不戦、宋が遼を弟とすること、宋から遼に対して年間[[絹]]20万匹・[[銀]]10万両を送ることなどが決められた。
 
この時期に、当事国の一方の国号が「遼」と「[[契丹]]」との間で何度か入れ替わるが、この記事中では全て「遼」で統一する。
11行目:
 
==澶淵の盟==
これに対して宋の朝廷は大いに狼狽し、[[王欽若]]などは金陵([[南京市|南京]])への避難を提案した。これに対して[[寇準]]は強硬に主戦論を主張し、皇帝[[真宗 (宋)|真宗]]に対して[[親征]]を主張し、真宗もこれを受け入れ、澶州(現在の[[河南省]][[濮陽市]])に赴いた。
 
両軍は膠着状態に陥り、和平交渉が持たれた。初め遼側は領土の割譲を求めていたが、宋からすればそれだけは受け入れ難いとして、財貨を送ることでの和平の道を探ることになる。寇準はむしろ遼が領土を割譲し、遼が自らを臣下と呼ぶなどの強硬な姿勢を貫くべきとの意見を出していたが、周りからの讒言もあり妥協した。使者の曹利用が遼へと赴く際に、真宗は「100万両までなら出しても良い」との言葉を与えたが、寇準は曹利用に対して「30万を超えたら、お前を斬る」と脅していた。
32行目:
[[Category:宋朝の条約]]
[[Category:遼朝の条約]]
[[Category:1004年]]
[[Category:11世紀の条約]]
[[Category:1004年]]