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第1軍参謀副長、[[第3師団 (日本軍)|第3師団]]参謀長、オーストリア公使館付、参謀本部課長、[[歩兵第38連隊]]長、[[歩兵第53連隊]]長などを歴任し、[[1911年]]9月、陸軍[[少将]]に進級。歩兵第24[[旅団]]長、[[関東都督府]]参謀長、参謀本部第2部長、中国出張などを経て、[[1916年]]5月、陸軍[[中将]]となる。欧州出張、[[第5師団 (日本軍)|第5師団]]長、参謀本部次長、[[台湾軍 (日本軍)|台湾軍]][[司令官]]などを歴任し、陸軍大将に進級した。
 
[[軍事参議官]]となり、[[1923年]]9月の[[関東大震災]]に伴い、[[関東戒厳司令官]]を兼務。在職中、[[甘粕事件]]が起こり、その不手際を問われて司令官を更迭された。[[1924年]][[第2次山本内閣]]退陣に伴う[[清浦内閣]]組閣に際し、[[上原勇作]]により[[陸軍大臣]]に推挙されるが、[[田中義一]]らの抵抗工作遭い、「[[陸軍三長官|三長官]]一致の原則」が導入され、より就任はかなわなかった。同年[[9月1日]]、甘粕事件での[[大杉栄]]殺害を怨恨され、東京[[本郷 (文京区)|本郷]]三丁目のフランス料理店で[[和田久太郎]]により狙撃されたが無事であった。
 
[[1925年]]5月23日、[[福岡市]]東[[中洲]]の料亭での[[立花小一郎|立花大将]]の福岡市長任命祝賀会にて、再び狙撃されたが、無傷だった。同月、[[予備役]]に編入された。
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== 陸軍大臣事件(陸相候補問題) ==
[[山縣有朋]]亡き後、立場の違いによる意見の対立はあったものの、田中義一は長州閥の影響力を背景に上原閥内で大きな発言力を有していた。さながら、かつての山縣と上原勇作の関係に酷似しており、それを踏襲して上原は上原閥のNo.2である田中や長州閥に配慮した人事を行った。[[参謀総長]]に田中と同期の[[河合操]]を、[[教育総監]]に同期で長州閥の[[大庭二郎]]を据え、次の陸軍大臣に田中の親友で上原閥の福田を推挙した。しかし、田中はこれを造反の好機と見た。1924年1月、「福田雅太郎、[[尾野実信]]、[[宇垣一成]]の順で推薦します。」と上原に告げ、齟齬がないことで上原を油断させた。一方で福田の脛に傷(甘粕事件)があるのを利用し、[[清浦奎吾]]、河合、大庭を説得して自身の腹心である宇垣を陸相に就けることに成功したのである。この時、逆の順番で清浦に推薦したとも言われている。また、田中は[[研究会 (貴族院)|研究会]]を介して清浦に圧力もかけている。さらに三長官一致の原則(前任者が推薦し、三長官の同意と[[軍事参議官]](会議)の了解を得て候補者とする)を導入し、上原の権力を削ごうとした。これ以後、上原閥と長州閥(田中閥)の抗争が始まることとなった。福田は親友に裏切られ、そのまま予備役入りすることになってしまったのである。1925年4月8日、福田は[[軍事参議官]]会議を開き、田中の予備役入りを審議。当時の参議官は[[山梨半造]]、大庭以外は上原閥もしくは準上原閥であったため、田中の予備役入りは即日決定された。自身の予備役入りを以前から予想していた田中は政界入りの準備を完了しており、翌日陸軍を退役して[[立憲政友会|政友会]]総裁となる。[[陸軍機密費横領問題]]が事実であれば、田中は陸相時代から既に政界入りを計画していたことになり、予備役入りは望むところで、陸軍への影響力保持のため宇垣を陸相に据えたと言われている。しかし、これ(上原閥との敵対、宇垣の離反、長州閥の駆逐による陸軍への影響力の低下)が遠因で総理大臣を辞職することになったことは皮肉と言わざるを得ない。
 
== 栄典 ==