「旧川口居留地」の版間の差分

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しかし、貿易港としては短命に終わっている。川口および当時の[[大阪港]]である安治川左岸の富島は、安治川河口から約6[[キロメートル|km]]上流に位置する[[河川港|河港]]であるため水深が浅く、大型船舶が入港出来なかった。[[1872年]]には外国船の入港が途絶え、川口の外国人貿易商は良港を有する[[神戸外国人居留地]]へ続々と転出した。[[1890年代]]に東洋最大の港となった[[神戸港]]の繁栄とは対照的に、幕末から指摘されていた大阪港の大型船舶航行の限界は、結局[[1897年]]の大阪港第1次修築工事による新港湾造成まで解消されることはなかった。
 
川口には外国人貿易商に代わって[[キリスト教]]各派の[[宣教師]]が定住して[[教会堂]]を建てて布教を行い、その一環として病院、孤児院、学校を設立し経営を行った。[[平安女学院]]、[[プール学院]]、[[大阪女学院]]、[[桃山学院]]、[[立教学院]]、[[大阪信愛女学院]]といった[[ミッションスクール]]や[[聖バルナバ病院]]等はこの地で創設されたのである。それら施設も高度な社会基盤が整備されるに従い、武家屋敷の破却により空地が生じた[[玉造 (大阪市)|玉造]]をはじめ、現在の[[天王寺区]]や[[阿倍野区]]域にあたる[[上町台地]]へ広い敷地を求めて次々と移転して川口は衰退への道をたどることになる。
 
1899年の居留地廃止後は大阪市へ編入され、大阪市西区川口町となった。川口雑居地には[[華僑]](その多くは[[山東省]]出身者)が進出するようになり、[[中華街|中国人街]]となった。[[1916年]]に本田三番町に中華南帮公所、本田二番町に中華北帮公所が設置され、[[1925年]]には中華北帮公所内に[[中華民国]]駐神戸領事大阪分事務所も設置された。昭和初期にはその数は3,000人を超え、洋品店・理髪店・貿易業といった商売を行っていた。しかし、[[日中戦争]]の激化などでその多くは帰国し、[[大阪大空襲]]で焼け野原となった。
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戦後は華僑は大阪市内各地に拡散し、川口は地味な倉庫街となった。いくつかの古いコンクリート建築、赤煉瓦の[[三井倉庫]] (現在は解体)、[[モダニズム建築]]の[[住友倉庫]]本社がある他は、往時の繁栄の面影は残っていない。本田小学校の一隅に「川口居留地跡」の石碑([[1961年]]大阪市建立)がひっそりと立っているのみである。
 
日本聖公会大阪主教座聖堂川口基督教会は[[1995年]]の[[阪神淡路大震災]]により塔などが崩壊し、その後に多くの寄付を受けて復旧された。
 
== 交通アクセス ==