「エラム」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m WP:JPE関連。ほか、無出典"Hatami"は英語版記事、中国語版記事、秀逸な記事認定のされたフランス語版記事でも見られない表記ですので除去しました。詳しい方がご自由に変更なさってよろしく思います。
エラム語名称に出典追加。一応エラム語自称のHatamiはHaltamiと共に『古代オリエント事典』(2004)に記載がある表記ですが、他の言語版に見られないというのは気になりますので削除したままにしてあります。
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== 概要 ==
エラムと呼ばれたのは、メソポタミアの東、現代の[[フーゼスターン州|フーゼスターン]]などを含む[[イラン高原]]南西部の[[ザグロス山脈]]沿いの地域である。エラム人自身は自らをハルタミ (Haltami) と呼び、土地を指す際にはハルタムティ(Haltamti、後に訛ってアタムティAtamti)と呼んだ。[[シュメール語]]のエラムはこれの転訛したものである<ref name="オリエント事典エラム">[[#オリエント事典 2004|オリエント事典]], pp. 101-102. 「エラム」の項目より。</ref>。[[メソポタミア]]という古代文明世界の中心地に隣接したために、その文化的影響を強く受けたが、砂漠や湿地帯によって交通が困難であったために、政治的にはイラン高原地帯との関わりが深かった。エラム人は系統不明の言語[[エラム語]]を話す人々であり、メソポタミアで[[ウルク古拙文字]]([[楔形文字]]の元になったと考えられている絵文字)が発明されてから程なく、エラムでも[[原エラム文字]]と呼ばれる[[絵文字]]が発明された。この原エラム文字で書かれた文章は現在の[[アフガニスタン]]に近い地域からも見つかっており、エラム文化はイラン高原各地に影響を与えていたと考えられる。また、ほぼ同時代に{{仮リンク|エラム楔形文字|en|Elamite cuneiform}}も使われているが、それらの関係は全く解明されていない。メソポタミアの王朝はたびたびエラムに侵入して、これを支配下に置いた。一方でエラム人もメソポタミアへの介入を繰り返し、[[バビロニア]]の王朝をいくつも滅ぼしている。[[紀元前2千年紀|紀元前2000年紀]]に入ると、エラム人も楔形文字を使って記録を残すようになり、多くの情報がわかる。エラムの歴史で中心的役割を果たした都市は[[アンシャン]]、そして[[スサ]]である。スサを中心とした地方は[[ギリシア人]]たちには[[スーサ|スシアナ]]とよばれた。エラム人の残した文化や政治制度は、[[メディア王国|メディア]]や[[アケメネス朝|ペルシア]]に大きな影響を及ぼした。
 
エラム人は、オリエントのほかの地域とは異なる独特の相続制度を持っていた。即ち、王位は親子ではなく、まず兄弟によって相続されていくのである。この相続制度はかなり後の時代にまで継承され、異民族の侵入によっても基本的に変化しなかった。
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== 脚注 ==
{{reflist}}
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=[[ピョートル・ビエンコフスキ]]|author2=アラン・ミラード編|translator=[[池田裕]]、[[山田重郎]]監訳、[[池田潤]]、[[山田恵子]]、[[山田雅道]] |title=大英博物館版 図説 古代オリエント事典 |publisher=[[東洋書林]] |date=2004-7 |isbn=978-4-88721-639-4 |ref=オリエント事典 2004 }}
 
 
[[Category:エラム|*]]