「ソ連国防人民委員令第227号」の版間の差分

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== 背景 ==
1942年5月のハリコフ奪回を計ったバルベンコボ攻勢が失敗して、ソ連南西方面軍の戦車戦力は、ほぼ壊滅した。ドイツ軍は、6月28日に[[ブラウ作戦]]で東部ウクライナで攻勢に出たが、ソ連軍は戦力比で大幅に劣勢であったので、スタフカは、南西方面軍、南方面軍に、ドン河東岸への撤退と[[ロストフ・ナ・ドヌ|ロストフ]]の防衛を命じた。ところが、スターリン、スタフカの期待に反して、防衛を指示していたロストフは、軽微な抵抗だけで7月23日に陥落し、ドイツ軍はドン河を越えてコーカサスへ侵入をはじめた。第227号令の中では、最近の南部の防衛戦のありようを厳しく批している。
 
== 概要 ==
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第227号令は各[[戦線#ソビエト軍での用法|戦線]]({{lang|ru|фронт}}、ソ連特有の編成単位)にそれぞれ1つから3つの[[懲罰大隊]]を編成させた。これは規律違反で起訴された将兵によって構成され、最前線のもっとも危険な箇所に投入された。[[兵士|兵卒]]と[[下士官]]で構成された懲罰中隊も編成された。1942年から[[1945年]]にかけて427,910人の将兵が懲罰大隊に組み入れられた。
 
これら2つの手段と命令の前文は、冬季前年12月のモスクワ前面でのドイツ軍の後退の際おいてドイツ軍によって勝利し続けてい規律を維持すために用いられてプラスの効果が見られたとして引用されている
 
軍に督戦隊中隊を編成せよとの命令は3ヵ月後の1942年[[11月29日]]に取り下げられた。苦戦している赤軍の士気を奮い立たせ、愛国心を喚起させるつもりだったが、有害な効果を引き起こし、一般的にうまくいかなかった上、督戦隊が人的資源を浪費するのを見た指揮官が督戦隊中隊を用いないこともあったりしたことなどから、1942年10月より赤軍内の正規の督戦隊はひっそり姿を消した。ただし[[内務人民委員部]](NKVD)や[[スメルシ]]はその後も継続している。[[1944年]]11月29日、督戦隊は公式に解散した。