「ムスタファ・ケマル・アタテュルク」の版間の差分

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Aybeg (会話 | 投稿記録)
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[[ファイル:Bekir Sami Mustafa Kemal.jpg|thumb|left|200px|スィワス会議の頃、左から右へ:[[ムッザフェル・クルチ|ムザッフェル]]、[[ラウフ・オルバイ|ラウフ]]、[[ベキル・サーミ・クンドゥフ|ベキル・サーミ]]、ムスタファ・ケマル、[[ルーシェン・エシュレフ・ユナイドゥン|ルーシェン・エシュレフ]]、[[ジェミル・ジャヒト・トイデミル|ジェミル・ジャヒド]]、[[ジェヴァート・アッバス・ギュレル|ジェヴァート・アッバス]]]]
[[ファイル:Western Front 31 March 1922 bis.jpg|thumb|200px|[[チャイ、アフィヨンカラヒサール|チャイ]]訪問、左から右へ:[[アースム・ギュンデュズ|アースム]]、イスメト、不明、ツヴォナレフ、[[セミョーン・アラロフ]]、ムスタファ・ケマル、[[イブラヒム・アビロフ]]、[[アリ・イフサン・サービス|アリ・イフサン]]、1922年3月31日]]
[[ファイル:Karabekir-, Latife-Mustafa KemalHanım ve Atatürk Edremit yolu üzerindeki Ergama atköyünde Izmir(8 inŞubat 1923).jpg|thumb|200px|[[キャーズム・カラベキル]]、{{仮リンク|ラティーフェ・ウッシャキー|en|Latife Uşşaki|label=ラティーフェ}}、ムスタファ・ケマル、1923年2月8日、エドレミト]]
 
1918年11月13日、イスタンブールの[[ハイダルパシャ駅]]に着いたムスタファ・ケマルは、停泊する戦勝国艦船を目の当たりにした。1919年4月、{{仮リンク|シェヴケト・トゥルグート・パシャ|en|Turgut Pasha}}、[[ジェヴァト・チョバンル|ジェヴァート・パシャ]]、[[フェヴズィ・チャクマク|ムスタファ・フェヴズィ・パシャ]]は秘密裏に会談を持ち、「三人の誓約」(''Üçler Misâkı'') と呼ばれる報告書を作って国土防衛のため軍監察官区の創設を決定した。4月末、ムスタファ・フェヴズィは国防大臣シャーキル・パシャに報告書を提出し、4月30日、国防省とスルタン・[[メフメト6世]]は、参謀総長の承諾を受けた決定を承認した<ref>Zekeriya Türkmen, ''Mütareke Döneminde Ordunun Durumu ve Yeniden Yapılanması (1918-1920)'', Türk Tarih Kurumu Basımevi, 2001, ISBN 975-16-1372-8, p. 105. {{Tr icon}}</ref>。そして、イスタンブールに第1軍監察官としてムスタファ・フェヴズィ・パシャが、コンヤにユルドゥルム軍監察官(後に第2軍監察官)として{{仮リンク|ジェマル・メルスィンリ|en|Cemal Mersinli|label=メルスィンリ・ジェマル・パシャ}}が、エルズルムに第9軍監察官(後に第3軍監察官)としてムスタファ・ケマル・パシャが、ルーメリ軍監察官として[[ヌーレッディン・パシャ]]が派遣され、第13軍団が国防省直属となる計画であった<ref>Zekeriya Türkmen, ''Mütareke Döneminde Ordunun Durumu ve Yeniden Yapılanması (1918-1920)'', Türk Tarih Kurumu Basımevi, 2001, ISBN 975-16-1372-8, p. 106. {{Tr icon}}</ref>。この計画に従い、ムスタファ・ケマル・パシャは、東部アナトリアに派遣されることになった。5月15日、ムスタファ・ケマル・パシャは、ユルドゥズ宮殿に伺候し、メフメト6世との最後の会見の後、5月16日、貨客船「[[バンドゥルマ (貨客船)|バンドゥルマ]]」で出航し、5月19日、[[サムスン (都市)|サムスン]]に上陸した。後にトルコ共和国は、サムスン上陸の日をもってトルコ祖国解放戦争開始の記念日としている。ムスタファ・ケマルはアナトリア東部の[[エルズルム]]、[[スィヴァス]]においてアナトリア各地に分散していた帝国軍の司令官たち、旧統一と進歩委員会の有力者たちを招集、オスマン帝国領の不分割を求める宣言をまとめ上げ、また「アナトリア権利擁護委員会」を結成して抵抗運動の組織化を実現する。