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光は即位して呉王・闔閭となった。伍子胥・孫武などを擁して超大国・楚と何度も対決し、[[紀元前506年]]の[[柏挙の戦い]]([[:zh:柏舉之戰|zh]])では楚の首都・[[郢]]を陥落させる大戦果を挙げた。しかし本国が[[越]]王[[允常]]によって攻め入られ、さらに弟の[[夫概]]が王を名乗って呉を乗っ取ろうとしたため、郢より脱した楚王を追撃せず、慌てて本国へ戻ってこれを平定した<ref>[[紀元前506年|前506年]]に闔閭が楚の都である郢を占領したとき、王宮のうち旧[[令尹]]邸を末子の子山に与えた。しかし叔父の夫概が子山を攻撃したので、叔父を恐れた子山は立ち退いて、父の陣営に向かった。代わって夫概がここを本営とした(『春秋左氏伝』)。</ref>。
 
[[紀元前496年]]、越王允常が逝去して太子[[勾践]]が父の後を継ぐという報告を受け、10年前の恨みを晴らし出る杭を叩く[[欈李の戦い]]を起こし越へと攻め込んだ。しかし、[[スイ李|欈李]](現在の[[浙江省]][[嘉興市]])で、越の将軍・[[范蠡]]の奇策の前に敗れ、越の武将である[[霊姑孚]]が放った矢によって足の親指に矢傷を負い、これが元で死去した。臨終の際に、次男の[[夫差]]に対して「勾践が父を殺したことを忘れるな」と遺言し、復讐を誓わせた<ref>闔閭は3人の息子がいた。長男は太子波([[杜預]]の『春秋経伝集解』および前述の『史記索隠』が引く『[[竹書紀年]]』や『呉郡図経続記』による。『春秋左氏伝』では太子'''終纍''')、次男が夫差、三男が公子子山(『春秋左氏伝』)である。</ref>。
 
== 脚注 ==