「安帝 (漢)」の版間の差分

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永初5年([[111年]])春正月、日食が起きた。太尉の張禹が免職となり、李修が後任となった。先零羌の活動は続き、漢人にもこれに与する者が現れ始めた。
 
永初6年([[112年]])、天候の不順は続き、夏4月に司空の張敏が免職となり、[[劉愷]]が後任となった。各地で反乱が続き、冬11月には[[護烏桓校尉]]の呉祉が投獄され死去しているが、先零羌の頭目が死去するなど、弱体化の兆しが見え始めた。永初7年([[113年]])秋には、護羌校尉の[[侯覇]]と騎都尉の[[馬賢]]が先零羌を破っている。
 
元号が永初から[[元初]]に改められたが、天候の不順は続いた。先零羌も勢力を盛り返し、9月には武都と漢中に拠って隴道を断ち、涼州刺史の皮陽と狄道で戦った。この月に太尉の[[李修]]が免職となり、[[司馬苞]]がそれに代わった。
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元初4年([[117年]])春2月、日食が起き、夏4月に司空の袁敞が死去した。同月に鮮卑が[[遼西]]に侵攻したが、遼西郡は烏桓と協力しこれを撃退した。護羌校尉となっていた任尚は9月、刺客を送って先零羌の頭目を殺害し、12月には騎都尉の馬賢と共に富平上河で先零羌の軍勢を大いに破り、隴右を平定した。
 
元初5年([[118年]])春正月、長らく動静が不穏であった越巂夷が反乱を起こし、永昌、益州蜀郡の夷もこれに呼応し、益州刺史の[[張喬]]がこれを討伐した。夏6月には高句麗と[[ワイ人|濊貊]]が[[玄菟郡]]を攻撃した。この間も天災が続き、倹約を励行する詔勅が発布された。元初6年([[119年]])春2月には、人材を求める詔勅も出された。秋7月、鮮卑が馬城を侵略し、度遼将軍の鄧遵は再び南単于を率いてこれを撃破した。
 
永寧元年([[120年]])3月、沈[[テイ (民族)|氐]]種羌が張掖に侵攻した。6月に護羌校尉となっていた馬賢がこれを討ち破った。この間、夏4月に[[順帝 (漢)|劉保]]が皇太子となった。冬10月に司空の[[李郃]]が免職となり、[[陳褒]]が後任となった。この間、日食と長雨の被害が続いた。12月に司徒の劉愷が罷免され、[[楊震]]が後任となった。
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成人後の安帝は外戚の鄧氏に反発するようになり、その影響からか生活に乱れが生じていた。また閻氏(えんし)を立后するが、安帝との子をもうけた他の后妃を殺害するなどを行っていた。
 
3月、長く臨朝して政治の実権を握っていた鄧氏が死去すると、鄧騭は大将軍を辞任し、特進待遇となった。安帝は、4月に実父や実母らに皇帝や皇后を追尊する一方で、楽成王の[[劉萇]]を罪に問い侯に降格させている。5月には閻氏や[[宦官]][[李閏]]らの助力を得て、鄧騭や鄧遵ら、鄧一族を粛清し、また、平原王の[[劉長]]を罪に問い侯に降格させた。秋7月には大赦が実行された。太尉の馬英が死去し、前の司徒の劉愷が太尉となった。
 
この間、夏4月に濊貊が再び鮮卑と組んで遼東に侵攻し、遼東太守の[[蔡諷]]は戦死している。また、遼東属国都尉の[[龐奮]]が偽の璽書を受けて玄菟太守の[[姚光]]を殺害するという事件が起きている。8月には護羌校尉の馬賢が焼当羌と金城で戦った。鮮卑が居庸関に侵攻し、9月に雲中太守の[[成厳]]が戦死し、鮮卑と烏桓校尉が馬城において衝突し、度遼将軍となった耿夔がこれを救援した。鮮卑の動きは収まらず、玄菟郡を攻撃した。冬11月には漁陽に営兵が初めて設置された。冬12月、高句麗と[[馬韓]]と濊貊が玄菟城を襲い、[[夫餘]]の助力を得て州郡の力を合わせてこれを破った。