「トリエステ自由地域」の版間の差分

編集の要約なし
(→‎歴史: 赤リンクの仮リンク化)
|国歌追記 =
|位置画像 =Free Territory of Trieste Map.svg
|位置画像説明 = {{legend|#FFEC00|自由港地区}}{{legend|#CEBA80|市街地}}{{legend|#C4FFAE|[[イタリア]]}}{{legend|#FFCFE5|[[クロアチア]]}}{{legend|#CCD1FF|[[スロベニア]]}}
|公用語 =[[イタリア語]]、[[スロベニア語]]、[[クロアチア語]]
|首都 =[[トリエステ]]
その間にもイタリア系住民は、B地区からA地区またはイタリア本国に逃亡しつつあった。最終的にB地区に残ったイタリア系住民は1万4000人であった。
 
[[1954年]]、イタリアとユーゴスラビアとの間で協定が結ばれ、A地区の統治をイタリアに、B地区の統治をユーゴスラビアに委ねることになった。そして1975年の[[オージモ条約]]で正式に分割が承認された。ユーゴスラビア国内では、旧B地区を更に[[ドラゴニャ川]]を境として南北に分割し、港湾地域の[[コペル]]を含む北部を[[スロベニア社会主義共和国]]、南部を[[クロアチア社会主義共和国]]に帰属させた。
 
[[1991年]]から[[1992年]]にかけて[[スロベニア]]と[[クロアチア]]が独立すると、B地区は更に[[ドラゴニャ川]]を境とて南北に分割され北半分がスロベニア領、南半分がクロアチア領となった。この際、スロベニアとクロアチア両国の間では、[[ピラン湾]]ならびにドラゴニャ川最下流域の南側沿いに位置する細長い一帯(クロアチアが実効支配する{{仮リンク|プロヴァニア|sh|Plovanija|en|Plovanija}}村に属する地域で、スロベニアが領有権を主張している)を巡る新たな領有権問題が浮上し、[[2011年]]現在も解決されていない。クロアチア・スロベニア間では新たに入出国管理が行われ、通貨も別々になった一方、スロベニアは[[シェンゲン協定]]と[[欧州連合の経済通貨統合]]に参加したため、イタリア領とスロベニア領間は一体性を取り戻しつつある
 
== 関連項目 ==