「吹奏楽の歴史」の版間の差分

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なお、慶応4年よりはじまった[[戊辰戦争]]において新政府軍が行進する際に歌われ、演奏された曲が『[[宮さん宮さん]]』である<ref name=dan128/>。この曲は、和笛と太鼓による演奏形態のうえでも、また[[旋律]]のうえでもきわめて日本的な性格をもつが、歩行に合わせた規則正しい[[リズム]]に西洋音楽の影響がみてとれる<ref name=dan128/>。
 
[[明治]]2年([[1869年]])、[[薩摩藩]]軍賦役だった[[肝付兼弘]]は、藩命により当時[[横浜]]に駐屯していたイギリス海軍歩兵隊第10連隊を視察した<ref name="dan150">[[吹奏楽の歴史#團|團(1999)pp.150-182]]</ref>。そこで軍楽隊の楽奏に感銘を受けた肝付は、薩摩藩でも洋式軍楽隊を創設すべきことを国許に進言し、これにより薩摩藩軍楽伝習隊が編成された<ref name=miyama/>。伝習隊は16歳から26歳までの約30名の薩摩藩士により構成され、イギリス海軍歩兵隊第10連隊第1大隊付の軍楽隊楽長[[ジョン・ウィリアム・フェントン]]の指導を受けた<ref name=dan150/>。当初は調練や信号喇叭、[[譜面]]読み、鼓隊の訓練など楽器ぬきの練習を余儀なくされたが、翌明治3年、フェントンが注文していた[[ベッソン (企業)|ベッソン社]]製の楽器がイギリスから届くと、伝習隊員たちはクラリネット、コルネット、トロンボーン、ピッコロなどを手に練習をはじめた<ref name=dan150/>。彼らが最初に演奏した吹奏楽曲は、イギリス国歌の「[[女王陛下万歳|ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン]]」であったといわれている<ref name=dan150/>。これが、日本の吹奏楽のはじまりであり、伝習生がフェントンから管楽器を学んだ[[横浜市]][[中区 (横浜市)|中区]]山手の[[妙香寺]]には現在、「日本吹奏楽発祥の地」のプレートが飾られている<ref name="abe32">[[吹奏楽の歴史#阿部|阿部(2001)pp.32-38]]</ref>。初代「[[君が代]]」を作曲したことでも知られるフェントンは、[[インド]]、[[ジブラルタル]]、[[マルタ島]]、[[ケープタウン]]での勤務ののち日本に赴任し、合計約30年の長きにわたって外地で暮らした人物であった<ref name="hosokawa56">[[吹奏楽の歴史#細川|細川(2001)pp.56-59]]</ref>。[[帝国主義]]の時代、フェントンのような人物は世界各地にいただろうと考えられる<ref group="注釈">そのような意味で、吹奏楽の導入は日本を含めたアジア・アフリカ諸国にとってきわめて植民地主義的な意味を有していた。なお、細川周平は、日本でフェントンの事績が詳細に伝わっているのは、日本が後世オーケストラをもつようになったことと強い関係があると指摘している。[[吹奏楽の歴史#細川|細川(2001)pp.57-58]]</ref>。フェントンはまた、上述のとおり、隊に使用する楽器をまとめてイギリス本国に注文しているが、これが日本における洋楽器輸入の最初であった<ref name=hosokawa56/>。
 
明治4年([[1871年]])、政府が[[兵部省]]を[[陸軍省]]と[[海軍省]]に分けたのにともない、陸軍・海軍のそれぞれに軍楽隊が誕生した<ref name=miyama/>。陸軍軍楽隊(当初の名は「兵学寮教導団楽隊」)の初代軍楽長は[[西謙蔵]]、海軍軍楽隊(同じく「水兵本部楽隊」)の初代軍楽長は[[中村祐庸]]で、ともに薩摩藩軍楽伝習隊の出身であった<ref name=dan150/><ref group="注釈">フェントン作曲の初代「君が代」は不評で、しかも、それを最も批判したのが中村祐庸であった。中村は曲の改訂を提案し、海軍省はその提案を受けて[[1876年]](明治9年)[[11月3日]]の[[天長節]]での演奏を最後に、フェントン作曲の「君が代」を廃止した。[[吹奏楽の歴史#團|團(2001)pp.163-166]]</ref>。このとき発足した兵学寮教導団楽隊が、のちに「[[陸軍戸山学校]]軍楽隊」として知られる陸軍の軍楽隊である(名称は何回も変更された)<ref name=miyama/>。陸海軍の軍楽隊は数次の戦争や軍縮のつど、組織や人員に増減・変遷はあったが、[[1945年]]([[昭和]]20年)の旧[[日本軍]]解体まで続いた。[[蓄音機]]やレコードなどの複製技術がなかった時代の軍楽隊は、あらゆる場面でさまざまな音楽供給をになう存在であり、そのため、民間からの出演要請にも可能な限り応じることが制度化されていた<ref name=abe32/>。フェントンは英国陸軍を退役して日本海軍軍楽隊の[[お雇い外国人]]教師として1877年(明治10年)の任期満了まで務めた<ref name="dan234">[[吹奏楽の歴史#團|團(1999)pp.234-262]]</ref>。一方、西謙蔵を楽長とする陸軍の兵学寮教導団楽隊を指導したのは明治5年(1872年)に来日した[[フランス軍事顧問団 (1872-1880)|第二次フランス軍事顧問団]]の一員であった[[ギュスターブ・シャルル・ダグロン]]であった<ref name=dan234/>。