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=== 清の皇帝 ===
[[ファイル:Chengde summer palace writings.jpg|thumb|right|300px|[[避暑山荘]]にある麗正門。門上に掛かる額には清で使われた五つの文字が書かれ、清の皇帝支配下の五つの民族を表す。左から[[モンゴル文字]]、[[アラビア文字]]表記の[[ウイグル語]]、[[漢文]]、[[チベット文字]]、[[満洲文字]]。これらを合わせて五体という。]]
清は[[満洲]]・[[モンゴル]]・[[明|旧明領]]・[[チベット]]・[[東トルキスタン]]この五つの地域を束ねる[[同君連合]]であり。清の皇帝は、満洲人にとっては[[満洲族]]全員を率い、自らも上三旗の旗王である[[八旗]]の盟主(ハン)、旧明領の[[漢民族]]にとっては[[天命]]を受けた[[明王朝]]に替わる[[儒教]][[天子]]、モンゴルにとっては[[チンギス・ハーン]]を継承するモンゴル諸部族の[[ハーン|大ハーン]]、チベットにとっては[[チベット仏教]]の最高施主であり[[文殊菩薩]]の化身、東トルキスタンにとっては異教徒ながら[[イスラム国家|イスラム]]の保護者である。儒教も仏教もイスラムも単独で絶対視せず、支配地域それぞれの世界観に基づく王権像と秩序論を踏まえ、共通する価値を拾い上げながら、しかも個別の世界観とは一定程度の距離を置いて統治し、それぞれの文化圏の接触を厳しく制限した。
 
また清王朝はいわゆる暗愚な皇帝が少なかった。これは元々満洲人には生前に後継者を指名する習慣や長子継承の習慣は無く、部族長会議で最も優れた人物を部族長や部族長のまとめ役であるハンとしていたこと、政権は一族の共有財産という考えであったため皇帝による完全独裁ではなく、かつ皇帝に対する教育も徹底して行われていたこと、雍正帝によって定められた[[太子密建]]により皇子たちが皇太子に指名されるように常に努力することと、臣下の派閥争いを未然に防ぐことができ、また、皇太子を秘密裏にすら決めない場合につきまとった「皇帝が後継者を決めないまま急死した場合や皇帝が老齢で先が長くないと見られた場合に後継者争いが頻発する」という弊害も避けることが出来たことが理由にある。太子密建が定められた背景には、康熙帝が皇二子である[[胤礽]]を皇太子と定めたが、各兄弟を中心とした派閥による度重なる後継者争いなどで胤礽は精神に異常をきたし、素行が悪くなったことで2度[[廃太子]]となった後、様々な確執の末に雍正帝が康熙帝の次の皇帝となったことにある。ただし予め先代皇帝が後継者を指名していなければ機能しない制度であるため、同治帝、光緒帝、宣統帝に関しては再び旗王諸王による会議で決められている。