「ローテンブルク・オプ・デア・タウバー」の版間の差分

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{{Otheruses|ドイツ、バイエルン州の都市|その他の用法|ローテンブルク (曖昧さ回避)}}
{{参照方法|date=2017年10月}}
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! 紋章
! 地図<br />(郡の位置)
| 標高: || 海抜 430 m
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| 面積: || 41.45 km²<sup>2</sup>
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| 人口: || {{PopSet|GER-BY|09571193}}<ref name="Pop">{{Population GER-BY|09571193|SOURCE}}</ref>
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| 郵便番号: || 91541
| 市外局番: || 09861
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| ナンバープレート: || AN
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| 自治体コード: || 09 5 71 193
[[1525年]]、[[ドイツ農民戦争]]において、ローテンブルクは[[フロリアン・ガイアー]]率いる反乱軍側につき、[[プロテスタント]]に改宗しようとしたが、最終的にローテンブルクの守将 Kasimir は降伏した。Johann Teuschlein ら反乱者が処刑された。
 
[[1544年]]、ローテンブルクは Johann Hornburg 市長の時代に遂にプロテスタントへの改宗を達成した。所謂いわゆる[[宗教改革]]である。[[1559年]]にはプロテスタントの教会規則が公布された。聖ジョンの騎士団とドイツ騎士団だけが引き続き[[カトリック教会|カトリック]]を信仰したが、これらの騎士修道会もそれぞれの教会(聖ジョン教会、聖ヨハネ教会)への権利を手放さねばならなかった。
 
[[1572年]]、[[1501年]]に焼失した市庁舎の東側の再建が始まった。その後、[[三十年戦争]]が勃発するまでの間、街は繁栄した。
[[ヴァイマル共和政|ヴァイマール共和国]]時代、この都市とその周辺の選挙区は、[[国家社会主義ドイツ労働者党|NSDAP]]支持者の多い地区となり、[[1933年]]の選挙でこの政党は80%もの票を獲得した。
 
ローテンブルクはナチスの運動家たちにとって特別に重要なものであった。彼らにとってローテンブルクはドイツ人の「故郷の町」の典型であり、ドイツ的な要素を余すところなく体現した街とされた。19301930年代を通じて、ナチスの下部組織である[[歓喜力行団]]は国中からローテンブルクへの日帰り旅行を定期的に組織した。この運動はローテンブルクの住民からは強く支持された。それは、この運動がもたらす経済的な利益のみならず、ローテンブルクは「ドイツの街の中で最もドイツ的である」と称揚されていたからでもあり、住民の多くは国家社会主義に好意的であった。1938年10月、ローテンブルクはユダヤ人市民を追放した。これはナチスや、ドイツ中のナチス支持者たちから支持された<ref>Joshua Hagen, "The Most German of Towns: Creating an Ideal Nazi Community in Rothenburg ob der Tauber", Annals of the Association of American Geographers 94:1 (2004), pp. 207–227, ''passim''.</ref>。
 
ここに理想的なナチスの地域社会が作り出されることで、ドイツの人々はナチスが求める家族や地域社会としての生活のありようを連想した。ローテンブルクは、ナチスの思想を理想的な家庭生活として明瞭に具現化していた。更に、他のドイツの街もナチスを支持してローテンブルクに作られた「例」に続くようになり、これが、ローテンブルクに「理想的な」ナチスの地域社会を作るということにつながるナチスのドイツ国家主義の傾向の始まりとなっていった。これが発展して、当時のプロパガンダで描かれていたような、理想的なナチスの家族像を示すことにつながっていった。ナチスや[[ヒトラーユーゲント]]の中で育ち、そして市民としてあるいは軍人としてナチスドイツの思想と総統[[アドルフ・ヒトラー]]を守るというナチスドイツの少年教育が始まると、理想的なライフスタイルは更に奨励された。これがナチスの愛国主義の中核思想を形成し、彼らの信条となっていく。多くの方法で、ローテンブルクはナチスの運動の鍵となる要素を示し、国家社会主義者の考えをドイツ中、およびヨーロッパ中のドイツ語圏地域に広めるためのモデル地域となっていたのである。
 
 
[[File:Rothenburg ob der Tauber Bomben Zerstörung Weltkrieg 1945.jpg|thumb|right|300px|連合軍による爆撃後のローテンブルク(1945年)]]
 
== 関連項目 ==
*[[大原総一郎]] - ローテンブルクを街並み保存の理想とした<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=C-0mDwAAQBAJ&pg=PA25  倉敷]日本の都市環境デザイン(3)中国・四国・九州・沖縄編、都市環境デザイン会議、建築資料研究社, 2003, p25</ref>。
 
== 脚注 ==
{{reflistReflist|2}}
 
== 外部リンク ==
[[Category:アンスバッハ郡]]
[[Category:ロマンティック街道]]
[[Category:古城街道]][[カテゴリ:城郭都市]]
[[Category:城郭都市]]
[[Category:ドイツの観光地]]
[[Category:ドイツの古都]]
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