「濱口内閣」の版間の差分

編集の要約なし
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
396行目:
 
== 内閣の動き ==
立憲民政党を中心とする[[政党内閣]]だが、一方で[[貴族院 (日本)|貴族院]]の親民政党議員を多く入閣させたところに特色がある。
 
外務大臣には[[外務省]]から[[幣原喜重郎]]を起用し、その協調外交は[[幣原外交]]と呼ばれた。また[[財界]]から信任のある[[井上準之助]]蔵相を起用して[[金解禁]]、緊縮政策、産業合理化を断行した。また政友会の反対を排除して[[ロンドン海軍軍縮条約]]を結んだ。これらが[[右翼]]からの反感を買い、1930年(昭和5年)11月に濱口首相が[[東京駅]]構内で[[右翼団体]][[愛国社 (1928年-)|愛国社]]党員の[[佐郷屋留雄]]に銃撃されて執務不能となると、慣例により[[国務大臣|閣僚]]の中で[[宮中席次]]が最も高かった幣原が[[内閣総理大臣臨時代理]]を務めた。しかし幣原は民政党員でない上に臨時代理が長期に及んだこと(結果的に最長不倒記録の116日)などから、その失言をきっかけとして[[野党]][[立憲政友会|政友会]]からの激しい攻撃を受けることになり、加療入院中の濱口が杖を突きながら復帰することとなったが、病状の悪化により[[内閣総辞職|総辞職]]した。その4か月後に濱口は死去した。
 
濱口は、初の[[明治]]生れ、[[高知県]]([[土佐藩]])出身の総理大臣である。