「ドゥブロヴニク」の版間の差分

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[[第一次世界大戦]]後の[[1918年]]に[[オーストリア=ハンガリー帝国]]が新たに後の[[ユーゴスラビア王国]]となる[[スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国]]の都市となる。都市の名称もラグーサから公式に現在のドゥブロヴニク変えられた。[[第二次世界大戦]]時には[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]の傀儡国家であった[[クロアチア独立国]]の一部であった。[[イタリア陸軍]]が最初に占領し[[ドイツ国防軍]]はその後、[[1943年]][[9月8日]]に占領し始めている。[[1944年]][[10月]]に[[ヨシップ・ブロズ・チトー|チトー]]率いる[[パルチザン (ユーゴスラビア)|パルチザン]]がドゥブロヴニクに入りその結果、[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]]の一部となる。パルチザンは市内に入ると直ぐに約78名の市民に対し裁判無しに死刑を宣告した。その中にはカトリックの聖職者も含まれていた<ref>{{cite web|url=http://www.glas-koncila.hr/rubrike_izdvojeno.html?news_ID=11154 |title=Nakon ulaska partizana u Dubrovnik u listopadu 1944.: Partizani pogubili hrvatske antifašiste &#124; Izdvojeno &#124; Glas Koncila |publisher=Glas-koncila.hr |date= |accessdate=2008-11-11}}</ref>。
 
=== ユーゴスラビア崩壊 ===
それまで観光客で賑わっていたドゥブロヴニクへの砲撃は[[1991年]]から[[1992年]]にかけて続いた。1991年はユーゴスラビアから相次いでクロアチアや[[スロベニア]]が独立を宣言した年で、[[クロアチア社会主義共和国]]は現在のクロアチア共和国へ名称が変わっている。[[1970年代]]の早い段階で、世界遺産に登録されている旧市街地は戦争による惨事から避けるため非武装化が行われたが1991年の独立宣言後、[[ユーゴスラビア人民軍]]に残っていた[[セルビア・モンテネグロ]]によって町は攻撃されている。
 
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|fr_name = Vieille ville de Dubrovnik
|country = クロアチア
|criterion_c = (1), (3), (4)
|rg_year = 1979年
|ex_rg_year = 1994年
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== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
 
== 外部リンク ==
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[[Category:ドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡]]
[[Category:ダルマチア]]
[[Category:領土の飛地]]
[[カテゴリCategory:城郭都市]]
[[Category:クロアチアの国境]]
[[Category:ボスニア・ヘルツェゴビナの国境]]