「ベアボーンズ議会」の版間の差分

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破局に至ったのは軍の扱いについてである。財政難に伴う軍の給料未払い、議会の軍縮画策に反発した軍がクーデターを起こしランプ議会は消滅したが、ベアボーンズ議会も同じ過ちを犯した。11月末に高級士官の無給勤務を提唱したり、軍の維持費を月別査定で将兵の給与支給を不確定にしたことで軍の怒りを買い、クロムウェルの下に結集した軍幹部は議会解散を促し、クロムウェルも議会に幻滅していたためハリソン派と決別した。そしてランバートら軍の息がかかった中道派は12月12日に議会で急進派を非難した後、国家権力をクロムウェルに譲り渡すことを表明、反対する急進派を無視して議会を退場、残された急進派も軍に追い出されベアボーンズ議会は解散された<ref>今井、P192 - P195、松村、P55 - P56、清水、P206 - P208。</ref>。
 
クロムウェルはベアボーンズ議会召集と権力委譲を失敗と語り、「我々はこの議会の出来事と結果とを、悲しく振り返ることであろう」「私の弱さと愚かさの物語である」との言葉を残している。失敗の原因は諸勢力を纏め切れなかったことと急進派の暴走にあったが、一般国民とピューリタンの目指す所の違いも崩壊の一因とされ、国民は平和を望んでいたがピューリタンは宗教的情熱による国政改革を重視、理想ばかりを見て国民と向き合わない姿勢に問題があった点が指摘されている。ともあれ、度重なる議会の統治失敗を経てクロムウェルが直接統治する番になり、ベアボーンズ議会解散から4日後の[[12月16日|16日]]、ランバートが中心になり作成、イギリス史上初の成文憲法として公布された『{{仮リンク|統治章典|label=統治章典|en|Instrument of Government}}』に基づきクロムウェルは[[護国卿]]に就任、護国卿時代が開始され[[1654年]][[9月3日]]に[[第一議会]]が召集された<ref>今井、P195 - P198、P201、松村、P56、清水、P209 - P211、P220。</ref>。
 
== 脚注 ==