「栃ノ海晃嘉」の版間の差分

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頭蓋骨抉る (会話 | 投稿記録)
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新弟子検査時点では身長176cm、体重72.3kgしかなく、しかも体重に関しては担当の親方から「もうちょっとだけ足りないから、おまえ、もう一回水飲んでこい」再計量を命じられてこれに応じた上でやっと通過した有様である。このようにあまりに体が小さいことからそもそも家族に入門を猛反対されていたと言い、そのため事後承諾を当てにして須藤に帯同する形で家族や高校に無断で入門を画策した<ref name="kobunsha"/>。地元の関係者は突然登校しなくなった花田を心配したが、花田が[[前相撲]]で一番出世を果たしたのを知って驚き、その後快く角界へ送り出されたという。なお入門の背景には昭和30年代の就職難があり、後年本人は「私が通っている高校は商業高校で、進学校でもなかったし、高校を卒業して就職しても、今みたいに大きな会社も少なかったものですから、卒業生のほとんどは個人のちっちゃなお店に就職して、帳面をつけるとかがせいぜいでした(中略)力士にでもなって東京へ行けば、力士がダメでも、またなんか仕事があるだろう…って、当時はその程度の考えですよ」と述懐している<ref name="kobunsha"/>。当初から相撲に自信は無かった一方で「俺でも少しいくらいは通用するんじゃないかな?」という気持ちで角界入りしたものの、いざ稽古を行うと実力差を思い知らされて気落ちしたという<ref name="kobunsha"/>。当時は洗濯は手洗いであり、巡業に行ったら寝る間もなく、昼間立ったまま寝る力士が出るほど力士生活は過酷であった<ref name="raireki"/>。
 
それでも1958年1月場所を除いて[[関取]]昇進まで負け越しを経験せず、1959年1月場所に新[[十両]]に昇進。栃錦がまだ現役であった頃、雪や北風が吹いても露天興行の土俵で怠らず稽古をする栃錦を見て責任感の強さを感じ、本人曰くこれが自身にとって良い教育になったという<ref name="kobunsha"/>。[[序ノ口]]の頃は50人から60人いる同部屋の力士に稽古土俵を取られまいと朝4時半に起きて稽古土俵に立ったという<ref name="raireki"/>。あまり早起きしすぎても、声を出して四股を踏んでいると近所迷惑になるため、それには困ったと後年苦笑している<ref name="raireki"/>。[[1960年]](昭和35年)3月場所で新入幕を果たすが、まだこの当時は身長177cm、体重88kg程度であり、[[勝ち越し]]は記録できず2場所で陥落。しかし7月場所は14勝1敗で十両優勝、9月場所、[[四股名]]を「栃ノ海」と改めて再入幕し、10勝5敗の好成績を挙げた。[[1961年]](昭和36年)5月場所2日目には横綱[[朝潮太郎 (3代)|朝潮]]から[[金星 (相撲)|金星]]を挙げ、翌7月場所では[[小結]]に昇進し11勝4敗の成績を挙げ、翌場所[[関脇]]に昇進してからは関脇の座を譲らなかった。[[1962年]](昭和37年)5月場所では横綱[[柏戸剛|柏戸]]に敗れたのみの14勝1敗で初の幕内最高優勝を果たした。この場所は新大関として佐田の山がいたが新大関がいた場所で関脇以下の優勝が見られた事例は、戦後の15日制下では史上2例目<ref name="nikaten">『相撲』2018年10月号99頁から107頁</ref>。13勝2敗の兄弟子・[[栃光正之|栃光]]と一緒に場所後、[[大関]]に昇進した(この場所は同門の新大関・[[佐田の山晋松|佐田の山]]も13勝2敗。さらに12日目から栃光→栃ノ海→佐田の山の順で横綱[[大鵬幸喜|大鵬]]を破り、[[一門 (相撲)#出羽海一門|出羽一門]]総掛かりで大鵬を崩した)<ref name="tochinoumi"/>。同じ部屋から2人同時に大関に昇進するのはこの組み合わせを最後に50年出ていない(そもそも複数の力士が同時に大関昇進を果たした例自体が少ない)。同部屋であるためか[[昇進伝達式]]は2人一緒に行なわれた。
 
=== 大関昇進から引退まで ===