「貴乃花光司」の版間の差分

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若貴ブームの頃には若貴兄弟が女性誌の表紙を飾り、女性週刊誌や写真週刊誌には毎号のように記事が掲載され、スポーツ新聞も相撲専門の新聞のようになり、コンビニに相撲専門誌が置かれているほどであった。世話人の友鵬は当時について「出待ちの女性ファンが若貴に群がり場所入りする力士がもみくちゃになることもあったため、柵を作ってファンの接近を制限することもあった。今(2017年時点)のファンは整然として行儀が良い」という内容の証言をしている<ref>『大相撲ジャーナル』2017年6月号86頁</ref>。
 
翌1992年1月場所は14勝1敗の成績で'''19歳5か月での幕内初優勝'''を果たした<ref name="nishonoo23"/>。この場所14日目の打ち出し後では貴花田を乗せていたハイヤーが玉突き事故の被害に遭うも、付け人2人が体を強打して病院に運ばれたのに対して貴花田は無事であった。幕内最高優勝達成者恒例の祝杯は、未成年であった関係上酒ではなくウーロン茶で行った。優勝した千秋楽の翌日、場所後の休養を取りに若貴フィーバーで骨休めにならない国内を離れ、父の勧めでサイパンへ出掛けた。この頃は後年の不仲は影も形もなかった<ref name="kagemokatachimo">『大相撲ジャーナル』2018年3月号 p.103</ref>同年9月場所で14勝1敗の成績で2回目の幕内優勝、同年は60勝30敗と6場所制定着後最少勝ち星ではあったものの史上最年少の[[年間最多勝]]を受賞した。
 
=== 大関時代 ===