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{{基礎情報 公家
'''田中 法麻呂'''(たなか の のりまろ、生没年不詳)は、[[飛鳥時代]]の[[貴族]]。名は'''法摩呂'''とも記される。直広参・[[田中足麻呂]]の子とする系図がある<ref>宝賀[1986: 428]</ref>。[[官位]]は[[冠位・位階制度の変遷#冠位四十八階|直大肆]]・[[伊予国#国司|伊予国司]]。
| 氏名 = 田中法麻呂
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[飛鳥時代]]
| 生誕 = 不明
| 死没 = 不明
| 改名 =
| 別名 = 法摩呂
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 =
| 墓所 =
| 官位 = [[冠位・位階制度の変遷#冠位四十八階|直大肆]]・[[伊予国#国司|伊予国司]]
| 主君 = [[持統天皇]]→[[文武天皇]]
| 氏族 = [[田中氏]]
| 父母 = 父:[[田中足麻呂]]
| 兄弟 =
| 妻 =
| 子 =
| 特記事項 =
}}
 
'''田中 法麻呂'''(たなか の のりまろ、生没年不詳)は、[[飛鳥時代]]の[[貴族]]。名は'''法摩呂'''とも記される。直広参・[[田中足麻呂]]の子とする系図がある<ref>宝賀[1986: 428]</ref>。[[官位]]は[[冠位・位階制度の変遷#冠位四十八階|直大肆]]・[[伊予国#国司|伊予国司]]。
 
== 経歴 ==
[[持統天皇]]元年([[687年]])追大弐・守苅田らとともに[[天武天皇]]の[[喪]]を告げるために[[遣新羅使]]に任ぜられる(この時の[[冠位・位階制度の変遷#冠位四十八階|冠位]]は直広肆)。翌持統天皇2年([[688年]])[[新羅]]に渡航する。しかし、かつて[[孝徳天皇]]の[[崩御]]を告げた際には翳飡(新羅の官位十七階の第二)位の[[武烈王|金春秋]]が[[勅]]を受けたが、今回は新羅から蘇判(新羅の官位十七階の第三)位の者が勅を受けると告げられたため、[[詔]]を渡さずに持統天皇3年([[689年]])正月に帰国した<ref>『日本書紀』持統天皇3年5月22日条</ref>。
 
まもなく[[伊予国#国司|伊予総領]]に任ぜられ、同年8月に[[讃岐国|讃吉国]][[三木郡|御城郡]]で捕獲した[[ツバメ|白燕]]について[[放し飼い]]とするよう詔を受け<ref>『日本書紀』持統天皇3年8月21日条</ref>、持統天皇5年([[691年]])には伊予国[[宇和郡]]御馬山で[[採掘]]した[[白銀]]3斤8両とあらがね1篭を[[朝廷]]に献上している<ref>『日本書紀』持統天皇5年7月3日条</ref>。
 
その後直大肆に昇進し、[[文武天皇]]3年([[699年]])[[衣縫王]]・[[当国見]]らとともに越智山陵([[牽牛子塚古墳|斉明天皇陵]]か)に派遣され山陵の修造を行った。
 
== 官歴 ==
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{{DEFAULTSORT:たなか の のりまろ}}
[[Category:飛鳥時代の人物]]
[[Category:田中氏 (古代氏族)|のりまろ]]
[[Category:7世紀生]]