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== 経歴 ==
=== 生い立ち・弁護士として ===
アメリカ統治時代の1946年9月1日に[[慶尚南道]][[金海市|金海郡(現:金海市)]]進永邑(チニョンウプ)烽下(ポンハ)村(マウル)の貧しい農家である父・盧判石(ノ・パンソック)、母・李順礼(イ・スンレ)の三男二女の末っ子に生まれる<ref name="dare"></ref>。母親は身ごもっている最中に[[胎夢]]を見たという<ref>http://www.chosunonline.com/article/20040507000062</ref>。6歳ですでに[[千字文]]を諳んじた神童であった<ref>http://www.chosunonline.com/article/20040507000062</ref><ref name="dare"></ref>。テチャン小学校の学籍簿には『小農で生活は下流』と記されたが、小学校では生徒会長を務め、中学校では成績トップを争うほどだったが、貧困により1年の休学を余儀なくされている。苦しい家計を思い、一度は高校進学を諦めるが、長兄[[盧英鉉]]の強い説得と助力もあり、1963年に名門の{{仮リンク|釜山商業高校|ko|개성고등학교}}に進学して警備員のバイトをして日銭を稼いだ<ref name="dare"></ref>。当時商業学校からの花形コースであった銀行マンを志し、[[農業協同組合 (韓国)|農協]]の就職試験を受けるも叶わず<ref>{{cite news |title=
「オピニオン」商業高校|author= |newspaper= 東亜日報|date= 2002-12-20|url= http://japan.donga.com/srv/service.php3?biid=2002122120548&path_dir=20021221|accessdate=}}</ref>、卒業後に「三海工業」という小さな魚網会社に就職するが、その待遇に失望して一カ月半で退職。[[司法試験]]への挑戦を決意する<ref>盧 武鉉 (原著) [[青柳純一]] (翻訳)『韓国の希望 盧武鉉の夢』、115-116頁及び134頁</ref>。盧武鉉は自著に貧しさ故に高卒で社会に出たこと、就職に失敗して独学で弁護士の道を志すようになったことは、盧武鉉の政治家人生における一種の稀少価値となったと記している<ref name="jicho">盧 武鉉 (原著) [[青柳純一]] (翻訳)『韓国の希望 盧武鉉の夢』、122頁。</ref>。当時、高卒では司法試験を受ける資格が与えられなかったが、故郷に帰って村外れのぼろ家に手を加えて「磨玉堂」と名づけて勉強の場とし<ref name="dare"></ref>、日雇い労働をしながら[[1966年]]11月に資格試験(司法及び行政要員予備試験)に、[[1971年]]に三級公務員の一次試験に合格。1968年から1971年の[[徴兵制度#大韓民国|兵役]]をはさんで勉強を続け、[[1975年]]に29歳で第17回司法試験に合格した後、盧に他の道が開けた<ref name="dare"></ref>。