「穂積百足」の版間の差分
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{{基礎情報 公家
| 氏名 = 穂積
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[飛鳥時代]]中期 - 後期
| 生誕 = 不
| 死没 = [[天武天皇]]元年[[6月29日 (旧暦)|6月29日]]([[672年]][[7月29日]])
| 改名 =
| 別名 =
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| 墓所 =
| 官位 =
| 主君 = [[弘文天皇|大友皇子
| 氏族 = [[穂積氏|穂積]][[臣]]
| 父母 = 父:[[穂積咋]]
| 兄弟 = '''百足'''、[[穂積五百枝|五百枝]]
| 妻 =
| 子 = [[穂積虫麻呂|虫麻呂]]?
| 特記事項 =
}}
'''穂積 百足'''(ほづみ の ももたり)は、[[日本]]の[[飛鳥時代]]の人物である。[[カバネ|姓]]は[[臣]]。[[穂積咋]]の子で、子に虫麻呂がいたとする系図がある<ref>「穂積系図」(太田亮『姓氏家系大辞典』[[角川書店]]、1963年 による)</ref>。▼
▲'''穂積 百足'''(ほづみ の ももたり)は、
[[672年]]の[[壬申の乱]]で、大友皇子([[弘文天皇]])のために倭京で兵を集めているとき、敵兵に殺された。▼
== 経歴 ==
壬申の年の6月に大海人皇子([[天武天皇]])が挙兵したことを知った[[近江大津宮]]の[[近江朝廷|朝廷]]は、各地に使者を派遣して鎮圧のための軍を興させた。このとき倭京への使者にたったのが、穂積百足とその弟[[穂積五百枝]]、[[物部日向]]であった。ここでいう倭(やまと)は[[大和国]]のことで、倭京とは[[飛鳥]]にあった古い都をいう。そこには[[留守司]]として[[高坂王]]がおり、ともに軍の編成に携わった。その陣営は[[飛鳥寺]]の西の槻の下にあった。
しかしこのとき、倭では[[大伴吹負]]が大海人皇子のために数十人の同志を得て戦う準備を進めていた。吹負は別の留守司である[[坂上熊毛]]と相談して、吹負が外から[[高市皇子]]を名乗って近づき、熊毛が内応するという計画を立てた。高市皇子はその頃[[美濃国]]にあって大海人皇子のために軍を編成していた。それが早くも倭に現れたと虚報を流そうというのである。
6月29日、吹負らは飛鳥寺の西の槻の下の陣営に入り、内応を得て軍の指揮権を乗っ取った。そのとき
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
{{DEFAULTSORT:ほつみ の ももたり}}
[[Category:
[[Category:飛鳥時代の人物]]
[[Category:戦死した人物]]
[[Category:壬申の乱]]
[[Category:生年不明]]
[[Category:672年没]]
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