「小早川秀秋」の版間の差分

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=== 越前転封と筑前復帰 ===
帰国した秀秋には秀吉より[[越前国|越前]][[福井城|北ノ庄]]15万石への[[減封]]転封命令が下った。これにより筑前国の旧小早川領は[[蔵入地|太閤蔵入地]]となり、[[石田三成]]と[[浅野長政]]が代官になっている。この国内召還と転封は蔚山城の戦いにおける秀秋の軽率な行動が原因とされることが多いが、前項で述べた通り、秀秋の帰国日程は蔚山城の戦い以前にすでに決定されており、また蔚山城の戦いへの秀秋の参加を裏付ける史料も存在しないため、実際には無関係であると考えられる<ref name="honda1997a"/>。この転封の際の大幅な減封により、秀秋家中は多くの家臣を解雇することとなり、長く付家老として秀秋を補佐してきた宗永もこの時、秀吉直臣の[[加賀国|加賀]][[大聖寺城]]主となって秀秋の元を離れている。隆景以来の旧小早川家家臣の[[高尾又兵衛]]や[[神保源右衛門]]らは、代官として派遣されてきた三成の家臣として吸収された<ref name="nakano1994"/>。秀秋からの筑前没収は朝鮮出兵の長期化の中での日本国内の兵站補給拠点である博多を含めた筑前の直轄支配の一環とも考えられる<ref name=ref name="honda1996">本多博之「豊臣政権下の博多と町衆」『西南地域史研究』11号(1996年)、のち谷徹也 編『シリーズ・織豊大名の研究 第七巻 石田三成』(戎光祥出版、2018年) ISBN 978-4-86403-277-3)、所収</ref>。
 
慶長3年(1598年)8月秀吉が死去すると、その秀吉の遺命をもとに翌慶長4年([[1599年]])2月5日付で[[徳川家康]]ら五大老連署の知行宛行状が発行され、筑前・筑後に復領。所領高も59万石と大幅に増加した<ref name="horikoshi2010">{{Cite journal |和書 |author = 堀越祐一 |title = 知行充行状にみる「五大老」の性格 |date = 2010 |journal = 國學院大學紀要 |issue = 48号 |naid = }}</ref>。なお、この時に博多の町衆の意向を受けて、秀秋は山口宗永によって否定された博多への「守護不入」復活を約束している<ref name=ref name="honda1996"/>。
 
=== 関ヶ原の戦い ===