「ホリールード寺院」の版間の差分

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Takatsuki (会話 | 投稿記録)
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[[15世紀]]から、多くの戴冠式と結婚式がこの寺院で執り行われた。多くの弾圧や略奪も受けた。
 
[[イングランド]]王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]と[[エドワード・シーモア (初代サマセット公)|エドワード・シーモア]]による『手荒な結婚申し入れ({{仮リンク|ラフ・ウーイング|en|The Rough Wooing}})』(まだ幼い[[メアリー1世 (スコットランド女王)|メアリー1世]]と、ヘンリー8世の嫡子[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード]]の結婚でスコットランド王位を手に入れようとした事件)の戦いの間、1544年にハートフォード伯により寺院は略奪の被害にあい、護国卿サマセット公は建物に損害を与えた。
 
ジェームズ7世(イングランド王としては[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]])は、ホリールード宮殿に[[イエズス会]]派の大学を建て、[[1688年]]5月に寺院を[[カトリック教会|ローマ・カトリック教会]]の教会堂にさせた。[[プロテスタント]]の会衆らは自分たちの祈りの場として、新しいカノンゲイト教会を設立した。同じ年の11月、オラニエ公ヴィレム([[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]として即位する)による[[名誉革命]]が起き、それまでのカトリック優遇への反動からエディンバラ市民は教会や王室納骨堂の略奪に走った。寺院の屋根を含む復興活動が[[1758年]]になされたが、屋根は1768年の大暴風で被害を受け、現在まで廃墟のままになっている。