「築地精養軒」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
1行目:
{{商業施設
|書式 =
|名称 = 築地精養軒
|外国語名称 =
|画像 = Tsukiji_Seiyouken.jpg
|画像説明 = 1912年の田山宗尭『日本写真帖』に掲載の写真<ref>[[#田山宗尭|田山宗尭]]、p.p.22。</ref>。
|地図 =
|郵便番号 =
|所在地 =
|緯度度 = |緯度分 = |緯度秒 =
|経度度 = |経度分 = |経度秒 =
|座標右上表示 =
|開業日 = 1872
|閉業日 = 1923
|店番号 =
|正式名称 =
|建物名称 =
|土地所有者 =
|施設所有者 =
|施設管理者 =
|設計者 =
|施工者 =
|敷地面積 = |敷地面積脚注 = |敷地面積備考 =
|建築面積 = |建築面積脚注 = |建築面積備考 =
|延床面積 = |延床面積脚注 = |延床面積備考 =
|商業施設面積 = |商業施設面積脚注 = |商業施設面積備考 =
|店舗数 =
|中核店舗 =
|営業時間 =
|駐車台数 = |駐車台数脚注 = |駐車台数備考 =
|駐輪台数 = |駐輪台数脚注 = |駐輪台数備考 =
|前身 =
|後身 = [[神田精養軒]]
|商圏人口 =
|最寄駅 =
|最寄バス停 =
|最寄IC =
|外部リンク =
}}
 
'''築地精養軒'''(つきじせいようけん)は、東京で初めての[[西洋料理]]店である。
 
[[明治維新]]後、[[東京]]には本格的な西洋料理店がなく、[[外国]]からの[[要人]]の[[接待]]に不便をきたしていたことから、[[岩倉具視]]の支援を受け、岩倉に仕えていた[[北村重威]](1819-1906年)が1870年(明治3年)、皇居前の[[東京市]][[京橋区]]馬場先門に築地精養軒ホテルを建設し<ref name=nakamura>[http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/8476/1/12_k_m_nakamura_toshihiro.pdf  東京ホテル建築史 1868 年~1939 年-その意味と多様性]中村敏宏、法政大学大学院デザイン工学研究科紀要 Vol.2(2013 年 3 月)</ref>、[[1872年]](明治5年)に皇居前の馬場先門に開業した。同年に[[銀座大火]]で焼失したため、翌年京橋区采女町32-33番地(現・中央区銀座5-15-8。[[時事通信社]]社屋の場所)に建坪200坪(660㎡)客室12のホテル・レストランを建設し、本格開業した<ref>[http://gmex21.com/seiyouken/origin.html 上野精養軒 上野精養軒物語 精養軒の起源]ジーメックス</ref>。

西洋料理の出前や、外国貴賓との交流がある日本人への西洋文化の指導なども行ない、東京に西洋文化が広まる後押しをし<ref name=nakamura/>、「[[采女町]]に在り、西洋料理を兼ねてホテルを営業とす。現在の建物は近年の建築に係り、欧米各国の最新式を採用して、更に新機軸を出したるもの。設備完全にして旅客の宿泊、宴会には最も便利なり」と評された

その後、[[上野恩賜公園|上野公園]]の開設とともに支店として「[[上野精養軒]]」も開業、本格的な[[フランス料理]]店をめざした。[[1923年]]、[[関東大震災]]で[[築地]]が全焼し、上野に本店を移して営業、現在に至る。
 
初代料理長は[[スイス人]]のカール・ヘス、二代目・C.L.ネップ、三代目・戸山慎一郎、四代目・西尾益吉、五代目・鈴本敏雄と続く<ref>[http://www.maroon.dti.ne.jp/schwarze-katz/legend/charihess.html 西洋料理人列伝 カール・ヘス Carl Jacob Hess(1838~1897)]日本の西洋料理</ref>。[[秋山徳蔵]]、[[関塚喜平]]と、日本の西洋料理史上の名料理人を輩出した。
10 ⟶ 54行目:
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
* {{anchor|田山宗尭}}『[{{NDLDC|762376/40}} 東京府]』、ともゑ出版『日本写真帳』。1912年。
 
==関連項目==