「崇神天皇」の版間の差分

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即位10年、[[大彦命]]を[[北陸道]]に、[[武渟川別]]を[[東海道]]に、[[吉備津彦命|吉備津彦]]を[[山陽道|西道]]に、[[丹波道主命]]を[[丹波国|丹波]]([[山陰道]])に将軍として遣わし従わないものを討伐させることにした('''[[四道将軍]]''')。しかし大彦命だけは異変を察知して和珥坂(わにのさか、奈良県天理市)から引き返し、倭迹迹日百襲姫命の予言から[[武埴安彦命|武埴安彦]](たけはにやすびこ、[[孝元天皇]]の皇子)の叛意を知ることとなる。武埴安彦は[[山背国|山背]]から、妻の吾田媛は大坂からともに都を襲撃しようとした。天皇は五十狭芹彦命([[吉備津彦命]])の軍を遣わして吾田媛勢を迎え討ち、一方の安彦勢には大彦命と[[彦国葺命|彦国葺]](ひこくにぶく、[[和珥氏]]の祖)を差し向かわせて打ち破った。
 
即位11年、再出発した四道将軍が戻り戎夷を従わせたことを報告した。即位12年に戸口を調査して初めて課役を科し、即位17年に献上品を運び込むための船を作らせた。即位48年に[[豊城入彦命|豊城命]]と[[垂仁天皇|活目尊]]を呼んで夢占いを行い弟の活目を皇太子とした。兄の豊城命には東国を治めさせた。即位62年、灌漑事業を行って依網池(よさみのいけ、[[大阪市]][[住吉区]])や軽([[奈良県]][[高市郡]])の[[酒折]](さかをり)池などを開き大いに農業の便を図ったと伝えられる。即位65年、任那が使者として[[蘇那曷叱知]](そなかしち)を遣わしてきた。即位68年、崩御。『古事記』には天下を統一して平和で人民が豊かで幸せに暮らすことが出来るようになり、その御世を称えて初めて国を治めた御真木天皇「所知初国之御真木天皇」と謂う、とある。
 
なお[[垂仁天皇|活目尊]](垂仁天皇)の即位2年、[[蘇那曷叱知]]は任那に帰国したが、その際に天皇からの下賜品を[[新羅]]に奪われてしまった。『[[日本書紀]]』における[[任那]]と[[新羅]]の抗争はここから始まる。
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* 垂仁天皇元年
** 10月、山邊道勾岡上陵に葬られた。
* 垂仁天皇2年
** [[蘇那曷叱知]]が任那に帰国。新羅に下賜品を奪われる。
 
== 宮 ==