「徐乾学」の版間の差分

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== 生涯と業績 ==
[[江蘇省]][[崑山市|崑山]]の出身。[[顧炎武]]のおいにあたる。8歳から良く文を読み、県学生・監生から[[1660年]]に[[挙人]]となり、[[1670年]]に[[進士]]となる(探花、3番で合格)。同時に内弘文院の編修に任命され、[[1682年]]に明史編纂総裁官、[[1685年]]に大清會典副總裁、[[1686年]]に大清一統志副總裁、そして内閣学士・経筵講官と礼部侍郎を兼任。[[康煕帝]]に近侍し著作に関する任務をほとんど任されるほどになった。学者としては[[胡渭]]・[[万斯同]]・[[閻若璩]]・[[黄儀]]・[[顧祖禹]]などと往来する。
 
[[1687年]]に都御史、[[1688年]]に會試正考官と刑部尚書となるなど毎年のように昇進していたが、この頃から諸臣・皇子らが党派をつくり争い合う風潮があり、徐乾学もまた客を好み党をかまえ、高奇士・王鴻緒などの姻戚・友人たちの首魁となり、弟である元文・秉義とともに昆山三徐とも称された。家人や問客のうちに奸利を働く者があり、御史の郭琇は「徐乾学は党を結び、巨額の賄賂を収めている」として弾劾し、副都御史の許三禮は「乾学律身不嚴」と上疏した。[[朋党]]同士の攻撃として、誇張されているとしても必ずしも虚言だけとも考えられない。