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'''武田 豊信'''(たけだ とよのぶ、生没年不詳)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将。[[武田氏#上総武田氏|上総武田氏]]当主。[[庁南城]]主。[[武田清信]]の[[養子]]とされている。一説には甲斐武田氏の[[武田信玄]]の三男[[武田信之 (武田信玄三男)|信之]]が養子として入ってきたとも言われている<ref>近年では上総武田氏庶流出身説や上総多賀氏出身説なども唱えられてはいるが、現存の上総武田氏関連文献は少なく、かつそのほとんどが甲斐武田氏出身説を採っている</ref>。
 
永禄3年、上総[[笠森寺]]に十六善神画像を寄進している<ref>[[川名登]]『上総武田氏について―その発給文書を中心にして―」(『千葉経済論叢』1号、1989年)</ref>。
[[第2次国府台合戦]]では[[里見義弘]]に従って出陣したが大敗している。[[上杉謙信]]と[[北条氏康]]が[[越相同盟]]を結んだときに、これに対抗する[[里見義堯]]と武田信玄の同盟([[甲房同盟]])の仲介をしたとされている。
 
元亀3年2月8日、武田信玄から里見・北条の和睦を斡旋して欲しいという内容の書状を送られている。<ref>川名登『上総武田氏について―その発給文書を中心にして―」(『千葉経済論叢』1号、1989年)</ref>。
[[1590年]]に行われた[[豊臣秀吉]]の[[小田原征伐]]には[[後北条氏]]に与力して参陣しなかった。このため、天正18年7月に秀吉の討伐軍に攻められて、徳川家康の旗本[[本多忠勝]]らと戦い敗戦。切腹したとされているが、一説には[[信濃国]][[松代町 (長野県)|松代]]に逃亡し蟄居したと言われている。長南町の大林寺に豊信の墓があり、天正18年に戦死の後葬ると伝われる<ref>千葉県誌 巻下 第 3 巻p856</ref>。落城後、嫡男氏信は西村(現在の茂原市永吉)に土着した<ref>千葉県誌 巻下 第 3 巻p855</ref>。
 
天正4年、豊信は里見氏を離れ[[古河公方]][[足利義氏]]の傘下に入った<ref>川名登『上総武田氏について―その発給文書を中心にして―」(『千葉経済論叢』1号、1989年)</ref>。
 
[[1590年]]に行われた[[豊臣秀吉]]の[[小田原征伐]]には[[後北条氏]]に味方したが[[小田原城]]に籠城したかどうかは不明である<ref>川名登『上総武田氏について―その発給文書を中心にして―」(『千葉経済論叢』1号、1989年)</ref>。
 
[[1590年]]に行われた[[豊臣秀吉]]の[[小田原征伐]]には[[後北条氏]]に与力して参陣しなかった。このため、天正18年7月に秀吉の討伐軍に攻められて、徳川家康の旗本[[本多忠勝]]らと戦い敗戦。切腹したとされているが、一説には[[信濃国]][[松代町 (長野県)|松代]]に逃亡し蟄居したと言われている。長南町の大林寺に豊信の墓があり、天正18年に戦死の後葬ると伝われる<ref>千葉県誌 巻下 第 3 巻p856</ref>。落城後、嫡男氏信は西村(現在の茂原市永吉)に土着した<ref>千葉県誌 巻下 第 3 巻p855</ref>。
 
諸系図には、天正18年7月7日に死去とある<ref>川名登『上総武田氏について―その発給文書を中心にして―」(『千葉経済論叢』1号、1989年)</ref>。
 
== 脚注 ==