「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2011年9月}}
[[File:Karte Deutsch-Dänischer Krieg.png|thumb|200px|1864年のウィーン条約による領土変更を示した図。薄い青の部分がシュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国、および同じくデンマーク王が領主であった[[ザクセン=ラウエンブルク|ラウエンブルク]]公国。]]
'''シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国'''は、[[ユトランド半島]]南部に位置した'''[[シュレースヴィヒ公国]]'''と'''[[ホルシュタイン公国]]'''の併称。2国は[[合邦]]したことはないが、15世紀に[[デンマーク王]]家([[オルデンブルク家]])が両国の公位を継承したため、人的[[同君連合]]となった。
 
しかし、[[シュレースヴィヒ公国]]がそれ以前よりデンマーク王の封地であったのに対し、[[ホルシュタイン公国]]は神聖ローマ帝国の一部であった。さらに複雑なことに、16世紀半ば以後デンマーク王家は両公国を分家である'''[[ホルシュタイン=ゴットルプ家|シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ家]]'''との共同統治とした(共同統治に当たった分家はもう1家あったが、早くに断絶した)。ゴットルプ家は共同統治者であるはずのデンマーク王家としばしば対立し、スウェーデンと同盟を結ぶなどの独自に動きを見せた。共同統治状態はシュレースヴィヒで1713年に、ホルシュタインで1773年に終了し、以後両公国はデンマーク王家による単独統治となった([[ホルシュタイン公国]]の記事も参照)。