「紫電改」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
38行目:
完成を急ぐため可能な限り強風の機体を流用することになっていたが、実際には[[発動機]]を「[[火星 (エンジン)|火星]]」から大馬力かつ小直径の「[[誉 (エンジン)|誉]]」へ換装したこと、尾輪を装備したことなどから、機首部の絞り込みや機体後部が大幅に変更されており、そのまま使用できたのは操縦席付近のみであった<ref name="124傑作機37"/>。しかし主翼については、車輪収容部分を加えた他はほぼ原型のままで、翼型も[[航空研究所]]で開発されたLB翼型([[層流翼]])が強風より引き継がれている。自動空戦フラップも装備していたが、初期段階ではトラブルに見舞われた(後述)。
 
1942年(昭和17年)12月27日に試作一号機が完成し、12月31日に伊丹飛行場(現在の[[大阪国際空港]])で初飛行を行ったが<ref>碇義郎『最後の戦闘機紫電改』76頁</ref>、当初から「誉」の不調に悩まされた。川西は「紫電ではなくエンジンの実験だ」という不満を抱き<ref name="菊原107">『最強戦闘機紫電改』107-108頁。菊原静男(元川西設計課長)「最強戦闘機の生涯」</ref><ref>碇義郎『最後の戦闘機紫電改』100頁</ref>、志賀淑雄少佐(テストパイロット)も「完成していなかった『ル』(誉の略称)の幻を追って設計された」と述べている<ref>碇義郎『最後の戦闘機紫電改』142頁</ref>。搭乗員の岩下邦夫大尉はエンジンの不調と共に紫電の操縦席に排気ガスが入ってきて苦労したという<ref>『最強戦闘機紫電改』160頁</ref>。
 
紫電は「強風」の中翼形式を継承しており、主脚の寸法を長めに作らねばならなかった。そこで主脚に二段伸縮式の構造を採用した。<ref name="124傑作機37"/><ref>『世界の傑作機No.124 強風、紫電、紫電改』75頁「あまりに拙速だった『紫電』(N1K1-K)」</ref><ref>碇義郎『最後の戦闘機紫電改』94頁「事故が頻発した『紫電』のテスト」</ref>。試作型では主脚を縮めるのに1-2分かかり、後に20秒に改善された<ref>『世界の傑作機No.124 強風、紫電、紫電改』75頁</ref><ref>『最強戦闘機紫電改』160頁</ref>。ブレーキの効きが左右で違うこともあり、ベテランパイロットであっても安心して着陸できなかった<ref name="碇六機278">碇『紫電改の六機』278-279頁「精鋭三四三空」</ref>。(脚部収納にかかる時間は、零戦12秒、紫電改9秒)