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ルブリンはしばしば[[モンゴル帝国]]軍や[[ルーシ人]]([[東スラヴ人]])、[[ヤトヴャグ族]]、[[リトアニア人]]の標的となり、たびたび略奪・破壊された。[[1317年]]に市の設立勅許状を受けた。[[1341年]]、[[カジミェシュ3世 (ポーランド王)|カジミェシュ大王]]は石造の城と市街地を囲む城壁を建設した。
 
[[1392年]]、[[ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ・ヤギェウォ]]はルブリンに商業特権を与え、[[ポーランド王国]]と[[リトアニア大公国]]の連合成立後は両国間の通商の重要な拠点となる。[[1474年]]にはルブリン地方が統合されルブリン県が設置され、[[15世紀]]と[[16世紀]]には街は急速に発展していく。16世紀からは[[ポーランド議会([[セイム (ポーランド・リトアニア共和国)|セイム]](貴族議会)がポーランドでたびたび開催された。[[1569年]][[6月26日]]に開催されたセイムにおいて、[[ポーランド・リトアニア連合王国]]の成立が議決された([[ルブリン合同]])。[[1578年]]には、[[マウォポルスカ]]地方での最高位の法廷である王立裁判所が置かれる。
 
16世紀後半からは[[宗教改革]]がルブリンで起こり、{{仮リンク|ポーランド兄弟団|pl|Bracia polscy|en|Polish Brethren}}の大規模な信徒集団が市内にあった。またこの時期に[[ユダヤ人]]コミュニティーがルブリンに形成された。ユダヤ人たちは[[ナチス・ドイツ]]の[[ホロコースト]]によってコミュニティーが消滅するまで、市の発展に不可欠な存在として活躍した。[[1580年]]から[[1764年]]までのあいだユダヤ人議会が設置され、70名の代議員が[[租税]]やコミュニティーに関する重要事項について討議した。