「ウラジーミル1世」の版間の差分

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== 前半生 ==
ウラジーミルは、955年頃キエフ大公・[[スヴャトスラフ1世]]と彼子として生まれた。、[[オリガ (キエフ大公妃)|オリガ]](スヴャトスラフ母、ウラジーミルの祖母)に仕えた鍵番マルーシャとの間に生まれであった。正嫡の兄として、長兄[[ヤロポルク1世]]と次兄オレーグがいた。
 
ウラジーミルは、父スヴャトスラフ1世存命中から[[ノヴゴロド公]]に任じられていた。これは、後継者として目されていたためであろう。そして父の死後の[[975年]]にヤロポルクがオレーグと争い、殺害にいたると<ref>[[#田中・倉持・和田 (1995)|田中・倉持・和田 (1995), p73]]</ref>、[[977年]]ウラジーミルは[[スカンディナビア]]へ逃亡した。37歳の時<ref>『ルーシ年代記』. 6360年 (852).</ref>、[[ノルマン人]]([[ヴァリャーグ]])人を率いて帰還、ヤロポルクを破り、[[キエフ大公]]に即位した。『[[ルーシ年代記]]』による即位年は[[980年]]であるが、11世紀後半の書『{{lang|uk|[[:uk:Пам'ять і похвала князю Володимиру|Память и похвала князю русскому Володимиру]]}}』によると、[[978年]]となっている<ref>[http://www.golubinski.ru/history/pohvala.html ''Память и похвала князю русскому Володимиру, како крестися Володимир и дети своя крести и всю землю Рускую''], ПВЛ. Год 6360 (852).</ref>。ウラジーミル1世が37歳になったのは[[978年]]であるため、[[980年]]説は成立しない。しかし、多くの書物では[[980年]]説は定説となっている。