「平田篤胤」の版間の差分

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平田国学・復古神道が立論の根拠にしたのは古伝であったが、『古事記』などの[[古典]]に収載された古伝説には齟齬や矛盾、非合理がふくまれているため、篤胤は古伝説を主観的に再構成した自作の文章を注解するという手法を用いて論を展開した<ref name=tahara1060/>。また、古伝の空白箇所を埋めるために、天地開闢は万国共通であるはずだという理由から諸外国の古伝説にも視野を広げた<ref name=tahara1060/>。古伝説によって宇宙の生成という事実を解明し、幽冥界の事実を明らかにしていくのが彼の関心であるかぎり、これは自然なことであったが、漢意の排除と文献学的・考証学的手法の徹底を旨としてきた本居派からすれば、かれの手法は邪道であり、逸脱にほかならない<ref name=tahara1060/><ref name=chikuma/>。しかし、篤胤はそもそも古代研究を自己目的にしていたのではなかった<ref name=miyaji28/>。彼は、自身も含めた近世後期を生きる当時の日本人にとって神のあるべき姿と魂の行方を模索したのであり、そこで必要な神学を構築するためにこそ『古事記』『日本書紀』その他の古典および各社にのこる[[祝詞]]を利用したのである<ref name=miyaji28/>。『霊能真柱』は篤胤にとって分岐点ともいえる重要な書物だったが、本居派の門人達は、この著作の幽冥観についての論考が亡き宣長を冒涜するものとして憤慨し、篤胤を「山師」と非難したため、篤胤は[[伊勢国|伊勢]][[松坂市|松坂]]の[[本居宣長旧宅|鈴屋]]とはしだいに疎遠になっていった。
 
なお、この年、篤胤は最愛の妻、織瀬を亡くしている。篤胤は深い悲しみのなか「天地の 神はなきかも おはすかも この禍を 見つつますらむ」の歌を詠んだ。愛妻の死は、死後の霊や幽冥への関心を促し、以後の幽界研究へとつながっていく<ref name=suzuki692>[[#鈴木|鈴木(1981)pp.692-693]]</ref>
 
文化10年([[1813年]])、対露危機に関して情報を集めていた篤胤は、危機が一段落したこの時期に蒐集文書をまとめて『千島白浪』を編纂しており、同書には当然収めてはいないものの、幕府機密文書も入手している<ref name=miyaji28/>。篤胤は、ロシア情報を獲得するために[[ロシア語]][[辞書]]までみずから編纂していたのであった<ref name=miyaji28/>。
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この時期の篤胤は、平田学の核心となる諸書の著述や刊行を進めると同時に幽界研究に大きな関心を払った。
 
文政3年([[1820年]])秋、江戸では天狗小僧寅吉の出現が話題となった。発端は江戸の豪商で随筆家でもある[[山崎美成]]のもとに寅吉が寄食したことにある。寅吉によれば、かれは神仙界を訪れ、そこの住人たちから呪術の修行を受けて、帰ってきたという。篤胤はかねてから幽冥界に強い関心をいだいていたため、山崎の家を訪問し、この天狗少年を養子として迎え入れた<ref group="注釈">篤胤は、文政3年から文政12年(1829年)までの9年間、寅吉を保護している。篤胤は少年を利用して自分の都合のいいように証言させているに違いないという批判もあったが、篤胤自身はきわめて真剣で、寅吉が神仙界に戻ると言ったときには、神仙界の者に宛てて教えを乞う書簡を持たせたりもしている。</ref>。篤胤は、寅吉から聞き出した幽冥界のようすを、文政5年([[1822年]])、『[[仙境異聞]]』として出版している<ref name=tahara1060/>。これにつづく『勝五郎再生記聞』(文政6年刊行)は、死んで生まれ変わったという武蔵国[[多摩郡]]の農民[[小谷田勝五郎]]からの聞き書きである<ref name=tahara1060/>。幽なる世界についての考究には、他に、『幽郷眞語』『古今妖魅考』『[[稲生物怪録]]』などがあり、妖怪俗談を集めた『新鬼人論』(文政3年成立)では民俗学的方向を示し、のちに柳田國男や折口信夫らの継承すところとなった<ref name=suzuki692/>
 
文政5年(1822年)、『ひとりごと』を著して、全国の神官に支配的な影響力をもつ吉田家に接近するため、かつて『俗神道大意』で痛罵した吉田家を弁護した<ref name=tahara1060/>。吉田家と敵対関係にある神祇伯白川家([[白川伯王家]])に接近したこともある<ref name=tahara1060/>。
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文政6年([[1823年]])、備中松山藩を辞している<ref name=tahara1060/>。こののち、篤胤は尾張藩に接近し、一時、わずかな扶持をあたえられたこともあったが、晩年にはそれを召し上げられている<ref name=tahara1060/>。
 
=== 関西旅行とインド学・シナ学 ===
文政6年(1823年)、篤胤は関西に旅行した。[[7月22日 (旧暦)|7月22日]]に江戸を発つ際、上京にかける意気込みを「せせらぎに潜める龍の雲を起し 天に知られむ時は来にけり」と歌に詠んだ篤胤は、[[8月3日 (旧暦)|8月3日]]に[[尾張国]][[熱田神宮]]に参詣し、[[8月6日 (旧暦)|8月6日]]に[[京都]]に到着した。自身の著作を[[富小路貞直]]を通して[[光格天皇|光格上皇]]に、門人[[六人部節香]]・[[六人部是香|是香]]を通して[[仁孝天皇]]に、それぞれ献上している<ref name=tahara1060/>。
 
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その後、[[伊勢神宮]]を参詣し、ついで[[松阪市|松阪]]の[[本居春庭]](宣長の子)を訪れ、[[11月4日 (旧暦)|11月4日]]に念願の宣長の墓参を果たした<ref name=tahara1060/>。墓前に「をしへ子の千五百と多き中ゆけに 吾を使ひます御霊畏し」の歌を詠んだが、これは自分こそが国学の正統な後継者であることの自負を示したものである。松阪では鈴屋本家を訪れ、本居春庭と会談するなどして、[[11月19日 (旧暦)|11月19日]]、江戸に戻った。
 
文政7年([[1824年]])、門人の碧川篤眞が娘千枝と結婚して婿養子となり、平田銕胤と名乗って篤胤の後継者となった。控えめ性格の銕胤は篤胤の活動をよく支えた。
 
この時期以降の篤胤は、[[道蔵]]をはじめとする[[シナ]]や[[インド]]の経典類の考究に力を注いだ<ref name=koyasu1/>。文政9年([[1826年]])成立の『印度蔵志』や文政10年([[1827年]])成立の『赤県太古伝』などがその代表である<ref name=koyasu1/>。他に『葛仙翁伝』『扶桑国考』『黄帝伝記』『三神山余考』『天柱五嶽余論』などの著作があり、これらは日本の古典や古伝承の研究をフィールドとするという意味での国学の概念を越え出ている<ref name=koyasu1/>。インドや中国の古記文献に関する研究が、篤胤の著述のかなりの部分を占めることは、他の国学者に見いだしえないところである<ref name=koyasu1/>。
 
=== 晩年の暦学研究、江戸追放 ===
[[天保]]2年([[1831年]])以降の篤胤は、[[暦日]]や[[易学]]に傾倒した<ref name=koyasu1/>。『春秋命暦序考』『三暦由来記』『弘仁暦運記考』『太皞古易』などの著作がある。上述のインド学・シナ学、そして[[暦学]]や易学、これらの研究の芽はいずれも『霊能真柱』のうちに胚胎していたものであった<ref name=tahara1060/><ref name=koyasu1/>。さらに、古史本辞経(五十音義訣)や[[神代文字]]など、[[言語]]や[[文字]]の起源も研究対象とした。
 
天保5年(1834([[1834]])、篤胤は水戸の史館への採用を願ったが成功しなかった<ref name=tahara1060/>。天保9年(1838([[1838]])ころから平田国学は地方の好学者に強く歓迎されるようになり、門人の数も大幅に増加した<ref name=jinmei475/>。しかし、[[天保の大飢饉]]のなか、将来を嘱望された塾頭の[[生田万]]が、天保8年([[1837年]])、[[越後国]][[柏崎市|柏崎]]で蜂起して敗死している([[生田万の乱]])
 
=== 江戸追放 ===
天保12年([[1841年]])[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]、[[江戸幕府]]の暦制を批判した『天朝無窮暦』を出版したことにより、幕府に著述差し止めと国許帰還(江戸追放)を命じられた<ref name=jinmei475/>。激しい儒教否定と尊王主義が忌避されたとも、尺座設立の運動にかかわったためともいわれる<ref name=jinmei475/><ref name=tahara1060/>。同年[[4月5日 (旧暦)|4月5日]]、秋田に帰着し、[[11月24日 (旧暦)|11月24日]]、久保田藩より15人扶持と給金10両を受け、再び久保田藩士となった<ref name=jinmei475/><ref name=tahara1060/>。江戸の平田塾[[気吹舎]]の運営は養子の平田銕胤に委ねられた。
 
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=== 秋田 ===
篤胤の出生地は久保田城下の中谷地町(現、秋田市[[中通 (秋田市)|中通]])であったが、生家である大和田家はのち旧亀ノ丁新町(秋田市中通六丁目)にうつり、同地には[[文久]]3年([[1863年]])、久保田藩士[[小野崎通亮]]・[[吉川忠安]]らによって国学塾雷風義塾が創設された。
 
秋田市[[千秋公園]](旧久保田城)の[[弥高神社]]には、佐藤信淵とともに祀られている<ref name=suzuki692/>。
 
墓所は秋田市の手形山(手形字大沢21-1)に所在し、国の[[史跡]]に指定されている。
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* {{Cite book|和書|author=[[桑原恵]]|chapter=7 古典研究と国学思想|editor=[[頼祺一]]編|year=1993|month=7|title=日本の近世第13巻 儒学・国学・洋学|publisher=[[中央公論社]]|isbn=4-12-403033-9|ref=桑原}}
* {{Cite book|和書|author=[[子安宣邦]]|translator=成瀬治|editor=フランク・B・ギブニー編|chapter=平田篤胤|year=1973|month=7|title=[[ブリタニカ国際大百科事典]]17 ヒラ—ペタ|publisher=[[ティビーエス・ブリタニカ]]|ref=子安}}
* {{Cite book|和書|author=鈴木久忠|year=1981|month=9|chapter=平田篤胤|title=秋田大百科事典|publisher=秋田魁新報社|series=|isbn=4-87020-007-4|ref=鈴木}}
* {{Cite book|和書|author=[[西岡和彦]]|editor=[[岡田荘司]]編|chapter=II 四 理論化する神道とその再編|year=2010|month=7|title=日本神道史|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=978-4-642-08038-5|ref=西岡}}
* {{Cite book|和書|author=[[田原嗣郎]]|chapter=平田篤胤|editor=國史大辭典編集委員会|year=1990|month=8|title=國史大辭典11 にた-ひ|publisher=吉川弘文館|isbn=4-642-00511-0|ref=田原}}