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== 経歴 ==
蕭衍と董淑儀のあいだの子として生まれた。[[508年]]([[天監]]7年)9月、南康郡王に封じられた。軽車将軍・領[[石頭城|石頭戍]]事として出向した。[[511年]](天監10年)、使持節・都督[[南徐州]]諸軍事・南徐州[[刺史]]に転じ、仁威将軍に進んだ。[[517年]](天監16年)、召還されて宣毅将軍・領石頭戍事となった。[[518年]](天監17年)、使持節・都督南北兗徐青冀五州諸軍事・[[南エン州|南兗州]]刺史として出向し、州では善政で知られた。まもなく召還されたが、南兗州の民の曹嘉楽ら370人が上表して、蕭績の功績15条をならべて留任を求めたので、蕭衍は留任を許可した。蕭績は北中郎将に進んだ。[[523年]]([[普通 (梁)|普通]]4年)、召還されて[[侍中]]・雲麾将軍・領石頭戍事となった。[[524年]](普通5年)、使持節・都督[[江州 (江西省)|江州]]諸軍事・江州刺史として出向した。母の董淑儀が死去すると、深く悲しんで喪に服した。蕭衍が自ら慰めて州任に留まらせようとしたが、蕭績は強く解職を求めたので、召還されて安右将軍・領石頭戍事に任じられ、まもなく護軍を加えられた。過剰な服喪のために痩せこけて行政をみることができなかった。[[529年]]([[大通 (梁)|大通]]3年)、在任中に病にかかって死去した。享年は25。侍中・中軍将軍・[[開府儀同三司]]の位を追贈された。[[諡]]は簡といった。
 
蕭績には趣味がなく、欲も少なく、下僕や妾も置かず、倹約した生活を送ったため、秩禄だけで蓄えが多くできた。死後に南康国には無記名の銭だけで数千万あった。