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}}
'''リトアニア共和国'''(リトアニアきょうわこく、{{lang-lt|Lietuvos Respublika}})、通称'''リトアニア'''({{lang-lt|Lietuva}})は、[[ヨーロッパ]](欧州)の[[共和制]][[国家]]。[[欧州連合加盟国|EU]]・[[北大西洋条約機構|NATO]]・[[経済協力開発機構|OECD]]の加盟国、[[通貨]]は[[ユーロ]]、人口は325万人、首都は[[ヴィリニュス]]である。
 
==概要==
[[バルト海]]東岸に南北に並ぶ[[バルト三国]]の中で最も南の国で西は[[バルト海]]に面する。北は[[ラトビア]]、東は[[ベラルーシ]]、南は[[ポーランド]]、南西は[[ロシア]]の[[飛地|飛び地]][[カリーニングラード州]]と[[国境]]を接する。面積は、日本の[[九州]]本島と[[四国]]島に[[山口県]][[島根県]]を合わせた面積にほぼ相当する<ref>リトアニアの面積65,200km²、九州本島の面積36,749.82km² (九州の面積42,194.75km²から屋久島・種子島・奄美大島・五島列島など離島除く)、四国島の面積18,301.17km²、山口県の面積6,112.30km²、島根県の面積6,708.23km²。</ref>。
 
なお、欧州のいずれに分類するかは見解が分かれる。[[国際連合|国連]]では[[北ヨーロッパ|北欧]]に分類されるが<ref>[[国際連合]]統計局の分類より。[[:File:Europe_subregion_map_UN_geoschme.svg|地図]] および次の「Northern Europe」参照 [http://unstats.un.org/unsd/methods/m49/m49regin.htm] 2011年2月17日. 2011年4月2日閲覧。</ref>、[[東ヨーロッパ|東欧]]<ref>[http://www.takushoku-u.ac.jp/laboratory/130720peri_resume.pdf 「東欧の金融・経済」 ~EU、ユーロ動向の最前線~]</ref><ref>[http://www.emeraldinsight.com/doi/abs/10.1016/S1530-3535%2804%2905013-7 FAMILIES IN LITHUANIA : Families in Eastern Europe]</ref><ref>[http://www.yivoencyclopedia.org/article.aspx/Lithuania YIVO | Lithuania]</ref>、もしくは[[中東欧]]<ref>[https://src-h.slav.hokudai.ac.jp/election_europe/index.html 中東欧・旧ソ連諸国の選挙データ]</ref>に分類される事もある。
 
[[第一次世界大戦]]後の[[1918年]]、リトアニア共和国として[[ロシア帝国]]より独立。[[1940年]]に[[ソビエト連邦]]から翌[[1941年]]に[[ナチス・ドイツ]]からも侵略された。その後、ソ連に再占領されて[[ソビエト連邦構成共和国|ソ連の構成共和国]]の一つとなったが、[[ソ連崩壊]]に伴い[[1990年]][[リトアニア独立革命|独立を回復]]した。
 
== 国名 ==
[[リトアニア語]]における正式名称は、 '''Lietuvos Respublika''' ({{IPA-lt|ˈlʲɛtʊvɔs ɾʲɛsˈpʊbʲlʲɪkɐ|}} リエトゥヴォス・レスプブリカ) 。通称 '''Lietuva''' ({{IPA-lt|ˈlʲɛtʊvɐ|}} リエトゥヴァ)、略称は LR 。
 
[[日本語]]の表記は「'''リトアニア共和国'''」で、通称「'''リトアニア'''」<ref>[https://jp.mfa.lt/jp/jp/ 駐日リトアニア共和国大使館](2018年10月19日閲覧)。</ref><ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/lithuania/index.html リトアニア共和国]日本国外務省(2018年10月19日閲覧)。</ref>。一部「リトワニア」「リスアニア」と書かれたこともある<ref>例えば、[[#ティフ編著, 2006|ティフ編著, 2006]].</ref>、「リトアニヤ」<ref>例えば、[[#小野寺, 1992|小野寺, 1992]].</ref>、「リツアニア」<ref>『國際聯盟年鑑 1929年』p.23 青木節一著</ref>という表記も見られる。
 
[[ビエト邦]][[ソビエト連邦構成共和国|構成共和国]]の時代の国名は「[[リトアニア・ソビエト社会主義共和国]]」。
 
=== 由来 ===
[[ファイル:Lietuvos vardas. The first name of Lithuania in writing 1009.jpg|thumb|right|[[1009年]]の年代記に登場するリトアニアの国名]]
[[1009年]][[3月9日]]付け(正しくは[[2月14日]]であったとみられる)の[[年代記]]において "Lituae" と記されたのが、歴史上リトアニアの国名が登場する最初の例である<ref>[[#Baranauskas, 2009|Baranauskas, 2009]]. p. 28.</ref>。これは[[ラテン語]]による表記で、文法上は[[属格]]での表記であり、この[[主格]]は "Litua" となる<ref name="Baranauskas29">[[#Baranauskas, 2009|Baranauskas, 2009]]. p. 29.</ref>。当時 [v] の発音は "u" で表記されていたが、この「リトヴァ」という呼び方は現在でも[[ポーランド語]]をはじめとする[[スラヴ語派|スラヴ諸語]]において用いられている(Litwa または Litva と表記)<ref name="Baranauskas29"/>。
 
「[[共和国]]」に相当する "Respublika"(レスプブリカ)は、「公共のもの」を意味するラテン語の "res publica"(レス・プブリカ)に由来する。"res"(レス)には「物」や「財産」という意味、"publica"(プブリカ)は「公共の」という意味である。
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=== 先史時代 ===
紀元前15000年頃、当時のリトアニアの大地はまだ[[ツンドラ]]に覆われていたが、狩猟や魚釣りを行っていた[[インド・ヨーロッパ祖語]]の話し手が紀元前2000年から紀元前3000年ごろにかけてやってたことが確認されている。その後温暖化が起こり[[氷河期]]が終わると、人々は定住するようになる<ref name="kiaupa15">[[#Kiaupa, 2005|Kiaupa, 2005]]. p. 15.</ref>。そして紀元前2000年頃、バルト族(現在のリトアニア人や[[ラトビア人]]のように[[バルト語]]を話す人々)がバルト地域へ定住するようになった<ref>[[#鈴木, 2000|鈴木, 2000]]. p. 4.</ref>。
 
=== 中世・近世 ===
「リトアニア」の国名が歴史的な文書に最初に登場するのは[[1009年]]である(''[[#国名|国名]]の節参照'')。
 
[[1230年代]]に[[ミンダウガス]]がリトアニアの諸部族を統一その後[[1253年]][[7月6日]]に[[リトアニアの統治者の一覧|リトアニア王]]となった<ref>{{Cite web | last = Baranauskas | first = Tomas | date = 2001-07-07 | url = http://www.voruta.lt/archyvas/24/1116 | title = Lietuvos karalystei – 750 | publisher = Voruta | language = リトアニア語 | accessdate = 2010-12-13 }}{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>。[[戴冠式]]が行われた7月6日という日付は現在リトアニアの[[建国記念日]]に制定されている(''[[#祝祭日|祝祭日]]の節参照'')。[[1263年]]、ミンダウガス王が暗殺され、その後は[[リトアニア大公国]]では[[多神教]]が信仰されていたことから[[ドイツ騎士団]]や[[リヴォニア騎士団]]からの攻撃を受けるようになった([[北方十字軍]])。リトアニアは西方から100年にわたって騎士団からの攻撃を受け続けていたがつつ、他方でリトアニアは東方(かつての[[キエフ公国]]領)へと勢力を伸ばしていった。
 
[[14世紀]]末までにリトアニア大公国は現在の[[ベラルーシ]]全域、[[ウクライナ]]全域、[[ポーランド]]の一部、[[ロシア]]の一部を領土とする、[[ヨーロッパ]]最大の国家となった<ref>[[#Magocsi, 1996|Magocsi, 1996]]. p. 128.</ref>。東西のはざまに位置していたリトアニア大公国では様々な文化や宗教が入り混ざっていた。リトアニアの支配者らはスラヴ文化・宗教に対して寛容で、また言語など多くの伝統を[[スラヴ語派|スラヴ部族]]から受け入れていった。政治的実体も[[ハールィチ・ヴォルィーニ大公国]]の[[ヴォルィーニ公国]]にあるほどであった。
 
[[ファイル:Vytautas the great.jpg|thumb|right|150px|[[ヴィータウタス]][[リトアニアの統治者の一覧|大公]]。彼のもとで[[リトアニア大公国]]は最大版図を達成した。絵画は[[17世紀]]に描かれたもの。]]
[[1385年]]、[[リトアニアの統治者の一覧|リトアニア大公]][[ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)|ヨガイラ]]は[[ポーランド君主一覧|ポーランド女王]][[ヤドヴィガ_(ポーランド女王)|ヤドヴィガ]]と結婚し、[[ポーランド君主一覧|ポーランド王]]を兼ねるようになった。これを機にヨガイラは[[キリスト教]]を受容、そして[[ポーランド王国]]とのあいだに[[クレヴォ合同]]が結ばれ、[[ポーランド・リトアニア合同]]が形成される。その後、2度の内戦を経て、[[1392年]]に[[ヴィータウタス]]が[[リトアニアの統治者の一覧|リトアニア大公]]となる。彼の治世のもとでリトアニア大公国は最大版図を達成し、中央集権化も進められた。この当時リトアニア大公国における公用語は[[リトアニア語]]ではなく、現在の[[ベラルーシ語]]の原型である[[ルテニア語]]であった。またリトアニア人の大公家を戴いていたものの、その政治的実態はリトアニア(リトゥアニア)人国家ではなく東スラヴ諸部族によるスラヴ人国家であった。
 
[[1410年]]、ポーランドとリトアニアの協力により、ドイツ騎士団との戦いに勝利をおさめた。この戦いは[[中世ヨーロッパ]]で最も大きな戦いの一つであり、リトアニアでは「[[タンネンベルクの戦い (1410年)|ジャルギリスの戦い]]」として知られる<ref name="Lane">[[#Lane, 2001|Lane, 2001]]. pp. ix, xxi.</ref><ref>[[#Fawn, 2003|Fawn, 2003]]. p. 186.</ref>。
 
このとき、リトアニア大公国軍は40部隊から成っていたそのうち原リトアニアから来たリトアニア人部隊はたったの4つで、28部隊は現在の[[ベラルーシ]]から、8部隊が[[ウクライナ]]から参加していたスラヴ人部隊であった。このことからも、リトアニア大公国の実態がスラヴ人、特に[[東スラヴ人]]が主導的な国家であったことがうかがい知れる。(いっぽう一方で当時のポーランドは[[西スラヴ人]]の国家であった。)
 
ヨガイラとヴィータウタスの死後、リトアニアの貴族はポーランドとの合同を解消し独自にリトアニア大公を選出しようとしたが、しかし[[15世紀]]末に[[モスクワ大公国]]が力をつけリトアニアにとって脅威となり、さらに{{仮リンク|モスクワ・リトアニア戦争|en|Muscovite–Lithuanian Wars}}および[[リヴォニア戦争]]が起きる中で、リトアニアはポーランドとの関係を強化せざるを得なかった。
 
こうして[[1569年]]、ポーランド王国とのあいだに[[ルブリン合同]]が成立し、[[ポーランド・リトアニア共和国]](ジェチポスポリタ)が誕生した。共和国内にあってもリトアニアは独自に軍隊や[[通貨]]、法令などを有していた<ref>[[#Stone, 2001|Stone, 2001]]. p. 63.</ref>。しかし最終的にリトアニアの政治、言語、文化などすべての面においてポーランド化が進んだ。[[16世紀]]半ばから[[17世紀]]半ばにおいては、[[ルネサンス]]および[[宗教改革]]の影響から文化、芸術、教育が栄えた。[[1573年]]以降、ポーランド王兼リトアニア大公は[[国王自由選挙|貴族による自由選挙]]で選ばれるようになる。[[シュラフタ]]たちは[[黄金の自由]]と呼ばれる政治的諸特権を享受し、当初はこれが良い方向に機能していた。しかしこの制度には[[自由拒否権]]に代表される欠陥があった。自由拒否権の廃止といった制度改革が、リトアニアの[[ラジヴィウ家]]といった一部の裕福で野心的なシュラフタ([[騎士]]階級)の反対によって遅れたことで後に国家が[[無政府状態]]に陥り、最終的に周辺諸国によって[[ポーランド分割|分割]]・解体される要因となった。
 
[[1655年]]から[[1661年]]の[[北方戦争]]において、リトアニアの領土や経済はスウェーデン軍によって破壊された。すべてが取り戻される復興前に[[大北方戦争]]([[1700年]] - [[1721年]])が勃発し、リトアニアは再び荒廃した。戦争、疫病、飢餓によって人口の約4割を失うこととなった<ref>"[[#Roads to Independence|Roads to Independence]]."</ref>。周辺諸国、とりわけロシアのリトアニア国内における影響力は増大していった。リトアニア貴族の諸派閥が拒否権を発動し続けたことにより、改革はすべて妨げられた。結局、[[ロシア帝国]]、[[プロイセン王国]]、[[オーストリア大公国]]([[ハプスブルク君主国]])の3カ国によって[[1772年]]に第1次[[ポーランド分割|ポーランド・リトアニア分割]]が行われ、その後[[1792年]]に第2次、[[1795年]]に第3次分割が行われた。これによりポーランド・リトアニア共和国は解体された。
 
現在のリトアニアの領土の大半は、この分割によりロシア帝国領となった。[[1831年]]の[[11月蜂起]]、[[1863年]]の[[1月蜂起]]はいずれも失敗に終わり、[[ツァーリ]]はその後ロシア化政策を強化、[[リトアニア語]]による出版物の発行が禁じられ、文化施設や教育機関が閉鎖を余儀なくされた。リトアニア地域はロシア帝国内では[[北西地域 (ロシア帝国)|北西地方]](クライ)と呼ばれる地方に属することとなった。
 
[[1877年]]の[[露土戦争 (1877年)|露土戦争]]の後、ロシア帝国と[[ドイツ帝国]]の関係が悪化するのに伴い、[[1879年]][[7月7日]]、[[ロシア皇帝]][[アレクサンドル2世]]は、ドイツとの戦いに備えるために[[カウナス]]郊外に[[要塞]]を建設することを承認した。
 
この時代、[[1868年]]から[[1914年]]までのあいだに、約635,000人、人口のおよそ20%がリトアニアを離れた。その多くは、[[1867年]]から[[1868年]]に起きた[[飢饉]]をきっかけに[[アメリカ合衆国|アメリカ]]へと移住した<ref>{{CathEncy|wstitle=Lithuanians in the United States}}</ref>。
 
=== リトアニア共和国として独立 ===
[[ファイル:Signatarai.Signatories of Lithuania.jpg|thumb|リトアニア独立宣言(1918年2月16日)に署名したリトアニア評議会(タリーバ)のメンバー20名]]
[[第一次世界大戦]]が起きると、リトアニアは[[東部戦線 (第一次世界大戦)|東部戦線]]戦場となった。[[1918年]][[2月16日]]、[[ロシア革命]]の余波が及ぶ中で[[リトアニア評議会]](タリーバ)はリトアニアの独立を宣言した([[リトアニア独立宣言]])。当初は[[リトアニア王国 (1918年)|リトアニア王国]]として独立したが、これは[[ドイツ帝国]]の計画したミッテル・オイローパ構想(汎ヨーロッパ主義)の一環であった。その後、[[1918年]][[11月11日]]に[[第一次世界大戦]]でドイツ帝国が敗北して崩壊すると、[[リトアニア共和国 (1918年-1940年)|リトアニア第一共和国]]となった。
 
その後のリトアニアは、[[ポーランド第二共和国|ポーランド]]およびドイツとの領土問題を抱えることとなる。[[1920年]]、ジェリコフスキ将軍率いるポーランド軍はヴィリニュス地域を侵攻、その後この地域にはリトアニア共和国とは別に[[中部リトアニア共和国]]が建国された。中部リトアニア共和国は後にポーランドに編入されたが、リトアニアにとってヴィリニュスは歴史的首都で、憲法でも首都として制定されていたため、その後ポーランドとのあいだで領土問題を抱え続けることとなった。この結果、[[戦間期]]には[[カウナス]]が臨時首都とされ、ポーランド第二共和国とは[[1938年]]にいたるまで国交が樹立されないままであった。この戦間期におけるリトアニア共和国の領土面積48,712平方kmであった。
[[File:LithuaniaCountiesDistricts1918-1940.png|thumb|第1次世界大戦後のリトアニアの領土]]
 
また、ドイツ([[ヴァイマル共和政]]および[[ナチス・ドイツ]])とは[[クライペダ]](メーメル)地方をめぐる[[領土問題]]を抱えていた。第一次世界大戦後、クライペダ地方は{{仮リンク|国際管理地域|en|International zone}}とされていたが、[[1923年]]リトアニア軍が侵攻し、占領した。その後この地方は、[[1939年]]3月、この地方はナチスドイツに併合されている。
 
リトアニア共和国はカウナスが臨時首都とされて以降は議会制民主主義体制がとられていたが、[[1926年]]の軍事[[クーデタ]]により[[アンタナス・スメトナ]]を大統領とする[[権威主義]]体制に移行した。
 
=== 第二次世界大戦 ===
[[1939年]]98月、ナチス・ドイツは[[ヨシフ・スターリン]]治下のビエト邦|と[[独不可侵条約]]条約を締結。その[[独ソ不可侵条約#秘密議定書|秘密議定書]]でバルト三国と東欧の分割支配を約した。同年9月、ドイツに続いてソ連[[ポーランド侵攻|ポーランド東部に侵攻し、]]。ソ連はヴィリニュス地域をリトアニアに編入する事を決定、ヴィリニュス地域がリトアニアに返還された<ref>[[#Ready, 1995|Ready, 1995]]. p. 191.</ref>。しかしその9ヶ月後の[[1940年]]6月、リトアニアはソ連から侵攻され独立を失う。この侵攻は[[、上記の独ソ不可侵条約]]秘密議定書にもとづくものであった<ref>[[#Ziemele ed., 2001|Ziemele ed., 2001]]. p. 10.</ref><ref>[[#Dawisha and Parrott, 1997|Dawisha and Parrott, 1997]]. p. 293.</ref>。なお、在リトアニア・カウナス日本[[総領事館]]の[[杉原千畝]]が[[ユダヤ]]人を助けたのは、この頃である。
 
翌年、ドイツ軍はソ連への侵攻を開始([[バルバロッサ作戦|ソ連への侵攻を開始]])、リトアニアは[[独ソ戦]]の末期まで、ドイツ軍の占領下に置かれることとなった。ナチスとリトアニア人協力者は、リトアニアの[[ユダヤ人]]およそ19万5000人を殺害した<ref name="Bubnys_vanished219">[[#Bubnys, 2004|Bubnys, 2004]]. pp. 218-219.</ref>(''詳細は[[リトアニアにおけるホロコースト]]参照'')。
 
[[1944年]]、[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]が再び侵攻し、その後は[[リトアニア・ソビエト社会主義共和国]]としてソ連に編入された。1944年から[[1952年]]にかけて、約10万人の[[パルチザン (軍事)|パルチザン]]がソビエト当局と戦った(「[[:en:Forest Brothers|森の兄弟たち]]」)。約3万人のパルチザン兵士およびその支援者は殺され、その他にも多くが逮捕され[[シベリア]]の[[グラグ]]へと強制追放された。[[第二次世界大戦]]中、合わせて78万人の住民がリトアニアで殺された<ref>{{Cite web | url = http://www.state.gov/r/pa/ei/bgn/5379.htm | title = Lithuania | language = 英語 | publisher = US Department of State | date = 2010-07-02 | accessdate=2010-12-13}}</ref>。
 
=== 独立回復へ ===
{{リトアニアの歴史}}
[[1986年]]以降、ソ連の[[ミハイル・ゴルバチョフ]]政権による[[ペレストロイカ]]や[[グラスノスチ]]を機に、国民運動[[サユディス]]が設立され、その後独立運動へと発展していった。[[1990年]]の[[1990年リトアニア最高会議選挙|リトアニア・ソビエト社会主義共和国最高会議選挙]]でサユディスは大勝利し、その後の[[1990年]][[3月11日]]、初の非共産党員の最高会議議長・[[ヴィータウタス・ランズベルギス]]が独立回復を宣言これは[[ソビエト連邦構成共和国]]の中で最も早いものであった。国内に他民族(主に[[ロシア人]])が少なかったことが、国内意見の集約を容易にさせた側面があるとされる。リトアニアの一方的な独立回復宣言を受け、ソ連政府は[[経済制裁|経済封鎖]]を実施さらに[[1991年]][[1月13日]]、[[ソ連国家保安委員会|KGB]][[特殊部隊]]の[[アルファ部隊]]が[[ヴィリニュス]]のテレビ塔を攻撃、13人の市民が殺された([[血の日曜日事件 (リトアニア)|血の日曜日事件]])<ref>{{Cite web | url = http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/january/13/newsid_4059000/4059959.stm | title = 1991: Blooshed at Lithuanian TV Station | language = 英語 | publisher = [[BBC]] | accessdate=2010-12-13}}</ref>。
 
世界の複数の国は、ソ連によるリトアニア併合を[[国際法]]的に否認したままであった([[バルト諸国占領#歴史的考慮]]を参照)。リトアニアによる独立回復制限を受けて、[[1991年]][[2月4日]]、[[アイスランド]]が世界に先駆けてリトアニアの独立を承認その後8月にソ連の首都[[モスクワ]]での[[ソ連8月クーデター|クーデター]]が企てられ失敗に終わると、[[9月6日]]、ソ連もリトアニアの[[国家の承認|独立を承認した]]。これによりリトアニアの独立は多くの国によって承認されるようになり、また[[9月17日]]には[[エストニア]]、[[ラトビア]]とともに[[国際連合]]に加盟した。なお、独立回復後は、[[エストニア]]や[[ラトビア]]とは異なり、残留ロシア人に対しほぼ無条件でリトアニア[[国籍]]を与えている。
 
[[1991年]][[12月25日]]の[[ソ連崩壊]]後、ソ連軍は[[ロシア連邦軍]]に継承されたが、[[1993年]][[8月31日]]、ロシア連邦軍はすべてリトアニアから撤退した。その後のリトアニアは[[西ヨーロッパ|西欧]]諸国や[[アメリカ合衆国]]との結びつきを強めており、[[1994年]]に[[北大西洋条約機構]] (NATO) に加盟申請した。[[計画経済]]から[[自由経済]]への移行した後、[[2004年]][[3月29日]]、NATONATOへ加盟さらに[[5月1日]]には[[欧州連合]] (EU) への加盟を果たした。
 
[[2009年]][[5月17日]]、[[2009年リトアニア大統領選挙|大統領選]]が行われ、EUの財政計画・予算担当欧州委員を務める[[ダリア・グリバウスカイテ|ダレ・グリーバウスカイテ]]元財務相が圧勝し、リトアニア初の女性[[リトアニアの統治者の一覧|大統領]]に選出された。グリーバウスカイテは[[2014年リトアニア大統領選挙|2014年の大統領選]]で再選を果たした。
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[[ファイル:LithuaniaPhysicalMap-Detailed.png|thumb|right|250px|リトアニアの地勢図]]
[[ファイル:Sand dunes Curonian.jpg|thumb|upright|[[ネリンガ]]砂丘]]
リトアニア共和国はヨーロッパの北東部に位置する、[[バルト三国]]の中でもっとも大きな国である。
 
西部はバルト海と面しており、砂質の海岸がおよそ99km(61.5マイル)広がる。そのうちの38km(24マイル)が[[バルト海]]の外海に面しているが、これはバルト三国の中でも最も短い。残りの海岸線は[[クルシュー砂州]]により区切られている[[クルシュー潟]]に面している。主な[[不凍港]]は[[クライペダ]]港で、クルシュー潟の狭い入り口に位置している。このクルシュー潟は浅く、南に[[ロシア|ロシア連邦]][[カリーニングラード州]]まで続いている。国内最大の河川である[[ネマン川|ネムナス川]](ネマン川)とその[[支流]]は、[[国際運河]]ともなっている。
 
リトアニアの地形は全体的になだらか平坦であるが、これは[[氷河期|第4氷河期]]に形成された氷河がその後後退した際、標高差のあまりない、細長く伸びる[[尾根]]しか残さなかったためである<ref name="lorot11">[[#ロロ, 1991|ロロ, 1991]]. p. 11.</ref>。このため小山や[[丘陵]][[平原]]がバルト地方の主な特色であるとえる<ref name="lorot11"/>。国内で標高の高い地域は西部の高台や東部の台地にある[[モレーン]]であるが、それでもリトアニアで最も高い地点([[アウクシュトヤス]] Aukštojas)の標高は292m(965フィート)しかない。
 
[[ヴィシュティーティス湖]]をはじめとする多くの湖や、また[[湿地|湿地帯]]があるのが特徴的である。また[[混交湿地林]]が国土の約33%を覆っている。
 
フランスの地理学者による算定によれば、ヨーロッパの地理的中心はリトアニアの首都のヴィリニュスの北数kmの地点になる。
 
[[植物地理学]]の観点からすると、リトアニアは中欧の特徴と東欧の特徴を合わせ持つ。また[[世界自然保護基金]] (WWF) によれば、リトアニアの領土は中欧[[混交林]]地域 (PA0412) と[[サルマタイ]]混交林地域 (PA0436) の2つの[[エコリージョン]]に分けられる<ref>{{Cite web | url = http://www.worldwildlife.org/wildworld/profiles/terrestrial_pa.html | title = Ecoregions | publisher = WWF US | language=英語 | accessdate=2010-11-15}}</ref>。
 
=== 気候 ===
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年間平均降水量は海岸部で800ミリ、[[ジェマイティヤ|ジェマイティヤ地方]]高地で900ミリ、リトアニア東部では600ミリである。雪は毎年10月から4月にかけて降る。9月や5月などは[[霰]]や[[雹]]が降ることもある。激しい嵐は東部ではあまり起こらないが、海岸部では頻繁に起こる。
 
バルト地域における気温に関する記録は、古いものでは250年前にまでさかのぼる。そのデータによれば、[[18世紀]]後半は暖かな気候であり、また[[19世紀]]は比較的涼しい気候であった。[[20世紀]]になると再び暖かくなり、[[1930年代]]には最も暖かくなったが、その後[[1960年代]]まではやや涼しい気候が続いた。その後は温暖化の傾向が続いている<ref>{{Cite web|url = http://www.baltex-research.eu/BACC/events/goteborg/Poster_2_1.pdf | title = Assessment of Climate Change for the Baltic Sea Basin - The BACC Project - 22–23 May 2006, Göteborg, Sweden | format=PDF | accessdate = 2010-04-25}}</ref>。
 
[[2002年]]には、森林および泥炭地における火災が原因で[[旱魃]](干ばつ)も起きている<ref>[[#Sakalauskiene and Ignatavicius, 2003|Sakalauskiene and Ignatavicius, 2003]].</ref>。2006年夏には、他の北欧諸国と同様リトアニアでも熱波に見舞われた。
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=== 行政区分 ===
{{リトアニアの地方行政区画マップ}}
現在の地方行政区画は[[1994年]]より適用されており、[[2000年]]には欧州連合加盟条件を満たすために修正が施されている。リトアニアは3段階の行政区画がある。まず、10の[[]]が設置されており、その下に60の[[基礎自治体]]が設置されている。さらにその下には500以上の区が設置されている。
 
==== 郡 ====
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: 「高地」の意。アウクシュタイティヤで用いられていた言語が[[リトアニア語]]の基礎となった。
* '''[[ジェマイティヤ]]''' {{lang|lt|Žemaitija}} - 北西部
: 「低地」の意。ジェマイティヤで用いられていた言語は現在リトアニア語の一[[方言]]とされている。
* '''[[ズーキヤ]]''' {{lang|lt|Dzūkija}} - 南東部
* '''[[スヴァルキヤ]]''' {{lang|lt|Suvalkija}} - 南西部
* '''[[小リトアニア]]''' {{lang|lt|Mažoji Lietuva}} - 沿海部
: 小リトアニアには現在の[[ロシア]]・連邦[[カリーニングラード州]]も多く含まれる。また今日リトアニア領となっている地域はクライペダ地方({{lang|lt|Klaipėdos kraštas}})ともいわれる。かつての[[リトアニア大公国]]の領土外であり、[[プロシア語|プロイセン語]]を話す[[プルーセン|プロイセン人]]の居住区であった。現在ではジェマイティヤに含まれる場合も多い。
 
=== 主要都市 ===
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=== 大統領 ===
大統領はリトアニアの国家[[元首]]とされ、5年任期で[[直接選挙]]によって選ばれ、最大で2期10年まで務めることができる。大統領選挙で過半数の票を獲得した候補が大統領に就任するが、いずれの候補も過半数の票を獲得しなかった場合は上位2名の候補による決選投票が行われる。
 
大統領職は儀礼的なものにぎないが、しかし[[外交]]や[[防衛]]方針の策定に加わり、それらを指揮する役割を果たす。大統領は、[[セイマス]](議会)の承認を得て[[リトアニアの首相|首相]]を任命し、首相が指名した他の閣僚も任命する。また他にも官僚や裁判官についても、大統領が任命する。
 
[[2014年リトアニア大統領選挙|2014年に行われた大統領選挙]]では[[ダリア・グリバウスカイテ]]が再選を果たし、二期目を務めている。なお、彼女はリトアニア史上初の女性大統領である。
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=== 国際関係 ===
[[File:Foreign Ministers of Nordic and Baltic countries met in Helsinki, 30.08.2011 (Photographer Eero Kuosmanen).jpg|thumb|2011年8月ヘルシンキで、フィンランド・スウエーデン・ノルウェー・デンマーク・アイスランド・エストニア・ラトビア・リトアニアの8カ国外相会談開催。<br>会談後、バルト三国独立20周年を祝うセミナーが開催された。]]
[[2009年]][[5月4日]]現在時点、リトアニアは154カ国と外交関係を樹立している<ref>
{{cite web | url = http://www.urm.lt/index.php?-1095894177 | title = List of countries with which Lithuania has established diplomatic relations | date = 2009-05-04 | publisher = Lietuvos Respublikos užsienio reikalų ministerija | location = Vilnius | language = 英語 | accessdate = 2010-12-14}}</ref>。また、6大陸94カ国に在外[[大使館]]を設置しており、大使館を設置していない2カ国に[[領事館]]を設置している。
 
リトアニアは[[1991年]][[9月18日]]以来[[国際連合]]加盟国であり、また国連機関やその他国際機関にも加盟している。また[[欧州安全保障協力機構]] (OSCE) や[[北大西洋条約機構]] (NATO) 、[[欧州評議会]]、そして[[欧州連合]] (EU) の加盟国でもある。EUの議会組織である[[欧州議会]]にはリトアニアから12名の議員が選出され、5年ごとに[[普通選挙]]で改選される。2001年5月31日からは[[世界貿易機関]] (WTO) にも加盟しており、現在は[[経済協力開発機構]] (OECD) などへの加盟を目指している。他方で、旧ソ連の[[ソビエト連邦構成共和国|連邦構成共和国]]でありながらも、[[独立国家共同体]] (CIS) には加盟していない。
 
== 軍事・安全保障 ==
{{Main|リトアニア軍}}
[[ファイル:LT KASP mokymai.jpg|thumb|160px|right|リトアニア国防義勇軍の兵士]]
リトアニアの軍隊は約15,000名の兵士によって結成されており、うち2,400名は非戦闘員である<ref>[http://www.kam.lt/en/human_resource_policy_1062/facts_and_figures.html Personnel size in 1998-2009] ''Ministry of National Defence''</ref>。またその他10万人の志願兵がいる。2008年9月までは[[徴兵制度]]が採られていた<ref name="Ministry of National Defence, Lithuania">{{cite news |url=http://www.kam.lt/index.php/en/168627/ |title= Compulsory basic military service discontinued |publisher=Ministry of National Defence}}</ref>。2004年以降、リトアニアは[[北大西洋条約機構]] (NATO) (NATO)に加盟し、[[ドイツ連邦軍]]など欧州各国軍が国内に駐留している。また、[[アフガニスタン]][[国際治安支援部]]への要員派遣も行っている。一度廃止した徴兵制を[[ロシア]]の脅威を理由に復活した<ref>2018年1月28日『[[中日新聞]]』朝刊3面</ref>。
 
リトアニアの国防制度は、国家安全保障戦略に示されている概念「総合的で絶対的な防衛」にもとづいている。リトアニアにおける防衛政策は、リトアニア社会に通常防衛の準備をさせ、リトアニアが西欧の安全保障・防衛機構に統合していくことを目的とする。国防省は戦闘部隊、捜索救難、諜報機関を管轄する<ref name="WB">{{cite web|url=http://www.kam.lt/EasyAdmin/sys/files/BK-En1.pdf |title=White Paper Lithuanian defence policy |language=リトアニア語 |publisher=Kam.lt |date= |accessdate=2010年4月25日}}</ref>。リトアニアに設置されている軍種は以下の通り。
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また、5400人からなる国境警備隊は内務省の管轄下に置かれ、[[国境]]の保護、[[パスポート]]および[[関税]]の管理を担当する。また、海軍と共同で[[密輸]]や[[麻薬]]取引などを取り締まる。
 
ロシアによるとみられる[[サイバー攻撃]]が頻発しており、2016年に「ナショナル・サイバー・セキュリティー・センター」を設立して防衛体制を強化している<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO36426750S8A011C1FF8000/ 「リトアニア、米軍駐留要請/スクバリネリス首相に聞く/ロシア脅威 サイバーでも」]『日本経済新聞』朝刊2018年10月13日(国際面)2018年10月19日閲覧。</ref>。
 
== 経済 ==
[[ファイル:European union emu map en.png|thumb|欧州為替相場メカニズム]]
[[国際連合|国連]]の分類によれば、リトアニアは平均所得の高い国に位置づけられており、鉄道、空港、4車線の高速道路などの近代的なインフラが整備されている。しかしそれでもリトアニアの所得水準は[[欧州連合]] (EU) に[[2004年]]の拡大前から加盟していた国よりも低く、[[国際通貨基金|IMF]]のデータによれば、リトアニアの1人たりの[[国内総生産|GDP]](為替ベース)はEU加盟27か国平均の半分ほどの15,649ドルにとどまる(2013年)<ref name="imf201410" />。こうした低所得が要因となり、2004年のEU加盟時には所得の高い国への移住が増加した。
 
EU加盟直前の[[2003年]]、リトアニアの経済成長率はEU加盟国および加盟候補国の中で最も高く、第3四半期には8.8%に達した。その後2004年にEUに加盟し、2004年には7.4%、[[2005年]]7.8%、[[2006年]]7.8%、[[2007年]]8.9%、[[2008年]]第1四半期には7.0%の[[国内総生産|GDP]]成長率を記録した<ref>Department of Statistics to the Government of the Republic of Lithuania. "[http://www.stat.gov.lt/lt/catalog/download_release/?id=2247&download=1&doc=1480 National Accounts of Lithuania 2006]." p. 20.</ref>。
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公式データによれば、EU加盟は海外からの発注の増加や観光業への後押しといった経済成長をもたらしている。それまでの通貨である[[リタス]]は[[2004年]][[6月28日]]より[[欧州為替相場メカニズム|ERM II]]の対象通貨となっており、1[[ユーロ]]=3.45280リタスで固定されていた<ref>[http://www.lb.lt/home/default.asp Lietuvos Bankas]</ref>。2015年1月1日に[[ユーロ]]へ移行した。
 
リトアニアの貿易は多くがEU圏内で行われており、2009年は輸出の64.2%、輸入の59.1%が対EU諸国であった。その他の国では、[[ロシア]]が最も高く(輸出13.2%、輸入29.9%)、次いで[[ベラルーシ]](輸出4.7%、輸入1.7%)、[[アメリカ合衆国]](輸出2.9%、輸入1.1%)、[[ウクライナ]](輸出3.0%、輸入0.9%)となっている<ref>[http://www.stat.gov.lt/en/pages/view/?id=2644 Exports, imports by country]. リトアニア統計局ホームページ. 2010年6月30日. 2010年11月17日閲覧。</ref>。
 
2001年には[[世界貿易機関]] (WTO) の一員ともなった。国有企業、特にエネルギー部門におけるそれの大規模な民営化が開始されており、現在も進行中である。
 
リトアニアの経済構造は知識集約型経済へと少しずつ着実に移行してきており、とりわけ[[生物工学|バイオテクノロジー]]や[[レーザー]]産業が特にさかんで、バルト三国におけるバイオテクノロジーの製造はリトアニアに集中している。また[[メカトロニクス]](機械電子工学)や[[情報技術]] (IT) 産業も今後のリトアニア経済が目指す方向として期待されている。
 
失業率は近年上昇傾向にあり、2010年第2四半期の失業率は18.3%である<ref>"[http://www.stat.gov.lt/en/news/view/?id=8310&PHPSESSID=3bf8251ceac47435c3f6a7c4fe6f3a38 Changes in the Unemployment Rate in II Quarter 2010: The Unemployment Rate in II Quarter 2010 Reached 18.3 Per Cent.]" リトアニア統計局ホームページ. 2010年8月24日. 2010年11月17日閲覧。</ref>。また、1日1ドル([[貧困線]])以下で暮らしている人の数は国民の2%にも満たない<ref>[http://www.who.int/quantifying_ehimpacts/national/countryprofile/lithuania.pdf Country Profiles of Environmental Burden of Disease: Lithuania]. [[世界貿易機関|WTO]]. 2009年. 2010年11月17日閲覧。</ref>。
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在リトアニアのポーランド人に対しては、ポーランド語の教育が行われている。(ポーランドにとって、リトアニアは、ポーランド語の教育が学校でなされている唯一の外国である。)
 
また、中世にヨーロッパ各地から[[ユダヤ人]]を受け入れたために、リトアニアの都市部にはユダヤ人が多く、その中でも特にヴィリニュスはユダヤ人らから「北の[[エルサレム]]」と呼ばれるほど<ref>"The Third Congress of Litvaks." ''The Baltic Times.'' 3-9 Sep. 2009.</ref>多くのユダヤ人が住んでいた。18世紀末の時点で約25万人のユダヤ人がかつての[[リトアニア大公国]]の土地に住んでいた<ref>[[#Kamuntavičius, 2006|Kamuntavičius, 2006]]. p. 55.</ref>。しかし、[[第二次世界大戦]]中の[[ナチス・ドイツ]]と、その後のソ連支配の時代の弾圧によりユダヤ人人口は大きく減少した<ref>[[#畑中、チェパイティス, 2006|畑中、チェパイティス, 2006]]. pp. 74-88.</ref>。
 
ソ連からの独立時に、住民すべてにリトアニア国籍が与えられた。このため他のバルト諸国のラトビアやエストニアのような残留ロシア人の無国籍問題は発生していない。
 
=== 年齢構成 ===
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==== 初等・中等教育 ====
リトアニアにおいてはすべての者が教育を受ける権利を有し、する。初等教育は6歳あるいは7歳から始められ、中等教育は16歳まで義務となっている。
 
リトアニアでは、464,638人の生徒が初等・中等教育(7〜16歳児が対象)を受けている([[2008年|2008]]-[[2005年|09年]])。これらの教育は[[リトアニア語]]で行われるものが多く、全体の92.4%(429,335名、2008-09年)の生徒がリトアニア語で学ぶ。その他の言語で学ぶ生徒の割合は、[[ロシア語]]が4.2%(19,676名、2008-09年)、[[ポーランド語]]が3.2%(15,064名)と続く。ほかにも、伝統的に[[ベラルーシ語]]で教育を行う学校が1校あるほか、近年[[フランス語]]で行う学校も1校設立された。英語による学校も1校存在する<ref name=edu08>[http://www.stat.gov.lt/en/catalog/download_release/?id=3319&download=1&doc=1582 Education 2008]. リトアニア共和国統計局. 2009年7月11日閲覧.</ref>。
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==== 高等教育 ====
{{main|リトアニアの大学の一覧}}
主な高等教育機関としては[[大学]]などが挙げられ、約144,300人の学生が国内に22ある大学に在籍している(2007年9月現在時点)<ref name=stat08>[http://www.stat.gov.lt/uploads/pdf/1_LSM_2008.pdf Lietuvos Statistikos Metraštis 2008 / Statistical Yearbook of Lithuania 2008.] Statistics Lithuania</ref>。[[ヴィリニュス大学]](VU、[[1579年]]設立)、[[カウナス工科大学]](KTU、[[1922年]])、[[カウナス医科大学]](KMU、1922年)、[[ヴィータウタス・マグヌス大学]](VDU、1922年)などがその代表例である。
 
大学・短大では[[経営学]]を学ぶ者が最も多く、次いで[[教育学]]、[[工学]]、[[法学]]、[[保健|保健学]]、[[社会学]]・[[行動科学]]、[[建築学]]、[[計算機科学|コンピュータ]]と続く。近年経営学を学ぶ学生数が急増しており、[[2004年]]の学生数は[[2000年]]の約3倍となった<ref name=fandf>[http://www.smm.lt/en/stofedu/docs/Education_in_Lithuania_Facts_and_Figures_2006.pdf Education in Lithuania Facts and Figures 2006] リトアニア共和国文部科学省. 2009年4月16日閲覧.</ref>。
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修士課程においても経営学を学ぶ学生が最も多く、次いで法学、教育学、工学、社会学・行動科学、保健学と続く<ref name=fandf />。
 
留学生が占める割合は非常に少なく、全体の約0.4%にぎない。そのうち約6割はヨーロッパ諸国からの留学生で<ref name=fandf />、とりわけベラルーシからの留学生が特に多い<ref name=stat08 />。アジアからの留学生は約3割となっている<ref name=fandf />。
 
== 生活・文化 ==
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[[ファイル:Mazvydo katekizmas.jpg|thumb|left|150px|初めて印刷されたリトアニア語による本(マルティナス・マジュヴィーダス著)]]
 
中世、リトアニアにおける文学の多くは当時の学術言語であった[[ラテン語]]で書かれた。[[リトアニアの統治者の一覧|リトアニア王]][[ミンダウガス]]による[[勅令]]はその一例である。また、[[ゲディミナス]]大公の手紙もリトアニアにおけるラテン語で書かれた重要な著作物の例である。
 
[[16世紀]]になると[[リトアニア語]]による著作が登場する。1547年、マルティナス・マジュヴィーダス (Martynas Mažvydas) がリトアニア語で『平易な語による[[カテキズム|教理問答]]』 (Catechismusa Prasty Szadei) を編纂発行した。これがリトアニア語による本の印刷の始まりである。その後ミカロユス・ダウクシャ (Mikalojus Daukša) が教理問答を引き継いでいる。
 
16世紀から17世紀におけるリトアニア文学は主に宗教に関するものだったが、その後[[啓蒙時代]]になると[[クリスティヨナス・ドネライティス]] (Kristijonas Donelaitis) が登場し、それまでの宗教中心のリトアニア文学を変えた。彼の著した「春の喜び」「夏の働き」「秋の幸」「冬の不安」の四篇からなる『一年』は国民的[[叙事詩]]であり、リトアニアの創作文学の礎を築くものであった<ref name=INST>Institute of Lithuanian Scientific Society.[http://anthology.lms.lt/ Lithuanian Classic Literature] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20050204191505/http://anthology.lms.lt/ |date=2005年2月4日 }}. 2009年2月16日閲覧.</ref>。
 
[[19世紀]]前半のリトアニア文学は[[古典主義]]、[[感情主義]]、[[ロマン主義]]の特徴が合わさったものであった。当時の代表的作家としては、アンタナス・ストラズダス (Antanas Strazdas) 、ディオニザス・ポシュカ (Dionizas Poška) 、シルヴェストラス・ヴァリウーナス (Silvestras Valiūnas) 、マイロニス (Maironis) 、シモナス・スタネヴィチュース (Simonas Stanevičius) 、シモナス・ダウカンタス (Simonas Daukantas) 、アンタナス・バラナウスカス (Antanas Baranauskas) などが挙げられる<ref name=INST/>。ロシア帝政下にあったリトアニアではリトアニア語による印刷物の発行が禁じられており、そのため本を密輸する地下運動([[クニーグネシェイ]] Knygnešiai)が行われるようになった。
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=== スポーツ ===
リトアニアで最も盛んなスポーツは[[バスケットボール]]である。国内にはプロ・リーグおよび教育リーグがあり、またナショナル・チームは[[ソウルオリンピック]]で男子代表が金メダルを獲得するなど数多くの世界大会で実績を残している。[[FIBAランキング]]でもリトアニアは2010年現在時点で男子世界5位となっており<ref>[http://www.fiba.com/pages/eng/fc/even/rank/p/openNodeIDs/943/selNodeID/943/rankMen.html FIBA Ranking for Men]. FIBA. 2010年11月21日閲覧.</ref>、17歳以下の部門では世界2位となっている<ref>[http://www.fiba.com/pages/eng/fc/even/rank/p/openNodeIDs/17814/selNodeID/17814/rankYouth.html FIBA Ranking for Boys]. FIBA. 2010年11月21日閲覧.</ref>。[[NBA]]プレーヤーも多く輩出しており、[[アルヴィーダス・サボニス]]、[[シャルーナス・マルチュリョニス]]、[[リナス・クレイザ]]、[[シャルーナス・ヤシケヴィチュス]]、[[ジードルーナス・イルガウスカス]]といった[[バスケットボールリトアニア代表|リトアニア代表]]選手がNBAやヨーロッパのリーグで活躍した。
 
 
リトアニアで最も盛んなスポーツは[[バスケットボール]]である。国内にはプロ・リーグおよび教育リーグがあり、またナショナル・チームは[[ソウルオリンピック]]で男子代表が金メダルを獲得するなど数多くの世界大会で実績を残している。[[FIBAランキング]]でもリトアニアは2010年現在で男子世界5位となっており<ref>[http://www.fiba.com/pages/eng/fc/even/rank/p/openNodeIDs/943/selNodeID/943/rankMen.html FIBA Ranking for Men]. FIBA. 2010年11月21日閲覧.</ref>、17歳以下の部門では世界2位となっている<ref>[http://www.fiba.com/pages/eng/fc/even/rank/p/openNodeIDs/17814/selNodeID/17814/rankYouth.html FIBA Ranking for Boys]. FIBA. 2010年11月21日閲覧.</ref>。[[NBA]]プレーヤーも多く輩出しており、[[アルヴィーダス・サボニス]]、[[シャルーナス・マルチュリョニス]]、[[リナス・クレイザ]]、[[シャルーナス・ヤシケヴィチュス]]、[[ジードルーナス・イルガウスカス]]といった[[バスケットボールリトアニア代表|リトアニア代表]]選手がNBAやヨーロッパのリーグで活躍した。
 
プロ・[[アイスホッケー]][[アイスホッケー選手一覧|選手]]も人気で、[[ディフェンス (アイスホッケー)|ディフェンス]]の[[ダリュス・カスパライティス]]や[[フォワード (アイスホッケー)|右ウィング]]の[[ダイニュス・ズブルス]]などが[[ナショナルホッケーリーグ|NHL]]で活躍している。
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=== 健康 ===
[[2009年]]におけるリトアニアの新生児の平均余命は男性66歳、女性78歳であり、これは[[欧州連合]]の中でも最も男女差が大きくまた男性の平均余命は最も低いものである。[[2008年]]における新生児の死亡率は1,000人たり5.9人となっている<ref>[http://www.stat.gov.lt/en/ Statistics Lithuania].</ref>。人口成長率は0.3%(2007年現在)。
 
リトアニアの[[自殺]]率はソ連からの独立回復期から急激に上昇し、現在ではリトアニアは世界で最も自殺率の高い国の一つとなっている。しかし近年はその自殺率も低下傾向にあり、[[世界保健機関]] (WHO) によると、リトアニアの10万人たりの自殺者数は1995年の時点で45.6人であったが、2000年には44.1人、2005年には38.6人、そして2007年には30.4人と推移しており、現在ではベラルーシの自殺率がリトアニアを上回る結果となっている(ベラルーシの自殺率は2003年の時点で10万人たり35.1人)<ref>[http://www.who.int/mental_health/prevention/suicide/country_reports/en/index.html Country reports and charts available]. World Health Organization. 2009.</ref>。
 
リトアニアはまた、欧州連合の中で殺人発生率が最も高い<ref>{{cite web|url=http://www.delfi.lt/news/daily/crime/article.php?id=19885621 |title=More people are killed in Lithuania than anywhere in the EU |publisher=Delfi.lt |date= |accessdate=2010年4月25日}}</ref>。