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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 武田
| 画像 =
| 画像サイズ =
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| 諡号 =
| 戒名 =
| 墓所 =
| 官位 =
| 幕府 = [[室町幕府]]准三管領
| 主君 = [[武田信玄]]
| 氏族 = [[武田氏]]([[甲斐源氏]])
| 父母 = 父:
| 兄弟 = '''義信'''、[[海野信親]]、[[武田信之 (武田信玄三男)|武田信之]]、[[黄梅院 (北条氏政正室)|黄梅院]]([[北条氏政]]室)、[[見性院 (穴山梅雪正室)|見性院]]([[穴山信君|穴山梅雪]]室)、[[武田
| 妻 = [[正室]]:'''[[嶺松院]]'''([[今川義元]]の娘)
| 子 =
| 特記事項 =
}}
'''武田 義信'''(たけだ よしのぶ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[甲斐国|甲斐]]の[[戦国大名]]・[[武田信玄]]の[[嫡男]]で[[武田氏]]を嗣ぐはずであったが、[[廃嫡]]された。
== 生涯 ==
天文7年(1538年)、
翌天文22年([[1553年]])12月29日には、武田氏歴代の中で初めて[[室町幕府]]将軍の[[足利義輝|足利義藤(後の義輝)]]より[[足利将軍家]]および[[清和源氏]]の[[通字]]である「義」の[[偏諱]]を受けて'''義信'''と名乗り、甲府館内には居所として西曲輪が増設されている(「高白斎記」)。
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永禄8年(1565年)10月には信玄暗殺を企てた[[謀反]]にかかわったとされ[[東光寺 (甲府市)|甲府東光寺]]に幽閉され(『甲陽軍鑑』)、永禄10年([[1567年]])10月19日には東光寺で死去した、[[享年]]30<ref>「武田源氏一流系図」『山資』6下(県外記録)所載、「十輪院武田家過去帳」『山資』6下所載、義信事件については後述。</ref>。同年11月に義信正室は駿河へ帰国している(『上越市史』)。
=== 義信事件 ===
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『甲陽軍鑑』に拠れば、永禄7年([[1564年]])7月に義信の傅役である[[飯富虎昌]]、側近の[[長坂源五郎]](昌国)、[[曽根周防守]]らが信玄暗殺の密談をしていたが、計画は事前に虎昌の実弟である[[山県昌景|飯富三郎兵衛]]の密書により露見し、永禄8年([[1565年]])1月、虎昌以下は謀反の首謀者として処刑され、80騎の家臣団は追放処分となったという。
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