「武田義信」の版間の差分

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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 武田 義信
| 画像 =
| 画像サイズ =
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| 諡号 =
| 戒名 =
| 墓所 = [[山梨県]][[甲府市]]東光寺の[[東光寺 (山梨県)|法蓋山東光寺]]([[山梨県]][[甲府市]]東光寺)
| 官位 =
| 幕府 = [[室町幕府]]准三管領
| 主君 = [[武田信玄]]
| 氏族 = [[武田氏]]([[甲斐源氏]])
| 父母 = 父:[[武田信玄]]、母:[[三条の方]]
| 兄弟 = '''義信'''、[[海野信親]]、[[武田信之 (武田信玄三男)|武田信之]]、[[黄梅院 (北条氏政正室)|黄梅院]]([[北条氏政]]室)、[[見性院 (穴山梅雪正室)|見性院]]([[穴山信君|穴山梅雪]]室)、[[武田勝頼|勝頼]]、[[真竜院]]([[木曾義昌]]室)、[[仁科盛信]]、[[葛山信貞]]、[[武田信清|信清]]、[[信松尼|松姫]]、[[菊姫 (上杉景勝正室)|菊姫]]([[上杉景勝]]室)
| 妻 = [[正室]]:'''[[嶺松院]]'''([[今川義元]]の娘)
| 子 = '''[[園光院]]'''守随信義{{efn|秤師の吉川守随茂済の養子<ref>{{Kotobank2|守随信義?|}}</ref>。}}
| 特記事項 =
}}
'''武田 義信'''(たけだ よしのぶ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[甲斐国|甲斐]]の[[戦国大名]]・[[武田信玄]]の[[嫡男]]で[[武田氏]]を嗣ぐはずであったが、[[廃嫡]]された。
 
== 生涯 ==
天文7年(1538年)、[[甲斐国|甲斐]]の[[戦国大名]]である[[武田信玄|武田晴信]]の嫡男として生まれる<ref>「大聖寺甲斐源氏系図」『[[山梨県史]]』資料編6上(県内記録)所載。</ref>。甲斐統一を果たした[[武田信虎]]の孫にあたる。父・晴信は天文5年に公家の[[三条公頼]]の娘([[三条夫人]])を正室に迎えており、『[[甲陽軍鑑]]』によればこれには武田氏と同盟関係にあった[[駿河国]]の[[今川氏]]の斡旋があったという。天文19年([[1550年]])に13歳で[[元服]]し、4月8日には駿河の[[今川義元]]の娘(従姉妹)を正室に迎えている{{Refnest|group="注釈"|ともに「[[高白斎記]]」『山資』6上所載、「高白斎記」は武田家臣駒井政武の原筆と考えられている武田家の記録資料で、義信の祝言にあたる天文22年までの武田家に関する家政記事や対外情勢が記されている。また、武田氏と今川氏は晴信・義元の前代において和睦し同盟関係にあり、晴信・義元期には[[相模国]]の[[後北条氏]]との同盟が成立し[[甲相駿三国同盟]]となるが、義信正室に義元の娘が迎えられたこともその一環であると考えられている。}}。[[傅役|傅]]は[[飯富虎昌]](『甲陽軍鑑』)。天文21年([[1552年]])8月には[[鎧着初|具足始]]が行われる(「高白斎記」)。
 
翌天文22年([[1553年]])12月29日には、武田氏歴代の中で初めて[[室町幕府]]将軍の[[足利義輝|足利義藤(後の義輝)]]より[[足利将軍家]]および[[清和源氏]]の[[通字]]である「義」の[[偏諱]]を受けて'''義信'''と名乗り、甲府館内には居所として西曲輪が増設されている(「高白斎記」)。
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永禄8年(1565年)10月には信玄暗殺を企てた[[謀反]]にかかわったとされ[[東光寺 (甲府市)|甲府東光寺]]に幽閉され(『甲陽軍鑑』)、永禄10年([[1567年]])10月19日には東光寺で死去した、[[享年]]30<ref>「武田源氏一流系図」『山資』6下(県外記録)所載、「十輪院武田家過去帳」『山資』6下所載、義信事件については後述。</ref>。同年11月に義信正室は駿河へ帰国している(『上越市史』)。
 
=== 義信事件 ===
[[Fileimage:Tokoji-temple Kofu-city.JPG|thumb|240px|幽閉された甲府市の東光寺]]
『甲陽軍鑑』に拠れば、永禄7年([[1564年]])7月に義信の傅役である[[飯富虎昌]]、側近の[[長坂源五郎]](昌国)、[[曽根周防守]]らが信玄暗殺の密談をしていたが、計画は事前に虎昌の実弟である[[山県昌景|飯富三郎兵衛]]の密書により露見し、永禄8年([[1565年]])1月、虎昌以下は謀反の首謀者として処刑され、80騎の家臣団は追放処分となったという。