「聖母教会 (ドレスデン)」の版間の差分

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'''聖母教会'''(せいぼきょうかい、{{lang-de|Dresdner Frauenkirche}})は、[[ドイツ]]東南部[[ザクセン州]]の[[ドレスデン]]にある[[福音主義教会|福音主義]][[キリスト教会]]である。[[ドイツ福音主義教会]]を構成する[[ザクセン福音ルター派州教会]]に属している。
 
教会の建物は[[第二次世界大戦]]中の[[ドレスデン爆撃]]を乗り切ったものの、完全に焼損し爆撃の翌日崩壊した。現在はしばらく放置されていたが、1985年に「かつての敵同士の和解を象徴する建築物として再建されたが決定する。外部の復元は[[2004年]]に、屋内は再建の開始より13年後の[[2005年]]に完了し、教会は2005年[[10月30日]]からプロテスタントの感謝祭である[[10月31日]]の[[宗教改革記念日]]まで、日を越しにかけ続い行われた祝賀式典により再び[[聖別]]された。
 
月に一度、[[ベルリン]]のセント・ジョージ[[英国国教会]]の牧師による晩祷が[[英語]]で執り行われる。
聖母教会は、[[ザクセン君主一覧|ザクセン選帝侯]][[アウグスト2世 (ポーランド王)|フリードリヒ・アウグスト1世]]が[[ローマ・カトリック教会]]信徒だったにも関わらず、[[福音主義教会]]([[ルター派]])の[[大聖堂]]として建築された。
 
最初の[[バロック建築|バロック様式]]の教会は1726年から1743年にかけてドレスデン市の大工長[[ゲオルク・ベーア]]([[:de:George Bähr|de]])の設計で建築された<ref>{{Cite web |url = https://kotobank.jp/word/フラウエン教会-620699 |title = デジタル大辞泉の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-05-20 }}</ref>が、彼は最高傑作の完成を見ることなくこの世を去った。ベーアは教会の[[祭壇]]、[[講壇]]、[[洗礼盤]]([[:en:Baptismal font|en]])を全信徒の真正面に配置する独創的な設計し、それにより[[ルター派]][[福音主義教会]][[ザクセン福音ルター派州教会#ルター派教会礼拝式文|典礼]]の新しい精神を捉えた。
 
1736年、高名なオルガン製作者[[ゴットフリート・ジルバーマン]]が3段の手鍵盤と43の[[ストップ_(オルガン)|ストップ]]を備えるオルガンを製作した。オルガンは11月25日に奉納され、12月1日に[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ]]が独奏会を行った。
[[ファイル:Dresden Frauenkirche 1880.jpg|thumb|220px|聖母教会(1880年)]]
教会は、高さが91.23m(再建後は91.24m)で、縦方向が50.02m、横方向が41.96mある。外観で最も特色があるのが型破りな[[ドーム]]で、底部の直径が底部が26.15mあり、上部は約10mで、「石の釣鐘(die Steinerne Glocke)」と呼ばれた。
 
[[ミケランジェロ]]の[[サン・ピエトロ大聖堂]]のそれに匹敵する技術的快挙である聖母教会の1,200トンの[[砂岩]]製のドームは、内部の支を伴わずに屹立していた。当初疑問視されていたにも関わらず、このドームはきわめて安定していることを証明した。1760年にドームは[[七年戦争]]中[[フリードリヒ大王]]率いる[[プロイセン]]軍によって発射された100発以上の砲弾に被弾したことが確認された。砲弾を跳ね返し、教会は危機を切り抜けたのである。
 
完成した教会はドレスデンの町に特色あるシルエットを与え、([[カナレット]]と同名であることで知られる甥の)[[ベルナルド・ベッロット]]による有名な絵と、ノルウェーの画家[[ヨハン・クリスチャン・ダール]]の「月光のドレスデン」によってそれは捉えられた。
== 再建と資金調達の促進 ==
教会を再建しようという意志は、第二次世界大戦が終わる最後の数か月の間すでに存在した。しかし東ドイツの政治的な事情により再建は遅れ、中断するに至った。聖母教会の瓦礫の山を含むドレスデン市の中心部は戦没者記念碑として保全されることになったが、これは1940年にドイツの爆撃により破壊され、[[イギリス]]の戦没者記念碑とされた[[コヴェントリー大聖堂]]([[:en:Coventry Cathedral|en]])と対をなすものと位置づけられた。廃墟が劣化し続けたため、ドレスデン市は[[ゼンパー・オーパー]]の復興がようやく完了した1985年、聖母教会をドレスデン城([[:de:Residenzschloss Dresden|de]])の再建の後に建て直す決定をした。
 
[[ドイツ再統一]]後、活動は再燃した。1989年、ドレスデンの著名な音楽家ルードヴィヒ・ギュトラーをリーダーとする14人の熱心なグループは市民機構を結成した。このグループが1年後「聖母教会復元<ref>訳は川口、p.243より</ref>」となったが、これは積極的な個人の資金調達活動から始まった。この団体はドイツとその他の20カ国で会員が5,000人を越えるまでに成長した。ドイツで同系列の援助グループが結成され、国外でも宣伝活動を行う組織が3つ設立された。
 
ドームを除いて、教会は可能な限り現在の技術の助けを借りながらオリジナルに用いられた建材と設計に基づいて再建された。瓦礫の山は記録され、ひとつひとつ運び出された。それぞれの石が最初にあったおよその位置は、堆積物のどこにあったかで測定が可能だった。使用可能な破片は計測され目録に記録された。石を三次元的にモニター上でさまざまな配置で動かすことが出来るコンピューター画像化プログラムは、建築家がオリジナルの石がどこに置かれ、どのように組み合わせられていたかを見つけるのを支援するために使われた。
 
再建には何百万もの石が使われた。8,500を越えるオリジナルの石が教会から回収されたが、およそ3,800が再建時に利用された。火災によるダメージと風化のため、古い石はより暗い色の[[緑青]]に覆われており、再建の数年後には古い石と新しい石の違いがはっきりと現れてくるであろうこととなる
 
オリジナルの祭壇の破片2,000個は、洗浄されて新しい祭壇の一部となった。
建築家たちは何千枚もの古い写真や、礼拝に参列していた人たちや教会当局の記憶、そしてぼろぼろの古い発注書を頼りにモルタルや塗装に用いられた顔料の品質を詳細に調べた。18世紀当時は屋内の彩色に大量の卵が用いられたが、主な目的は発光させるためであった。
 
入り口のオークのドアを複製するときには、建築家は扉の彫刻の細部について曖昧な記述しか得られていなかった。教会を訪れた人々、特に結婚式の参列者は教会のドアの外側でポーズを取ることがしばしばであったため、建築家たちは市民らに古い写真提供するよう要請し、結婚式のアルバムを含む反響を受けなどが提供された。これによりオリジナル当初のドアが再現された。
 
金めっきを施された新しいオーブと[[十字架]]は可能な限り18世紀の技術を用いて[[ロンドン]]のグラント・マクドナルド(Grant Macdonald Silversmiths)で鍛造された。十字架はロンドン出身のイギリス人、[[金細工職人]]アラン・スミスによって制作されたが、彼の父フランクはドレスデン爆撃に参加した航空機搭乗員の一人であった<ref>[http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/225369.stm BBC News | UK | Dresden Cross presented at Windsor<!-- Bot generated title -->]</ref> 。十字架はドレスデンへ旅立つ前にコヴェントリー大聖堂、[[リバプール大聖堂]]([[:en:Liverpool Cathedral|en]])、[[エジンバラ]]の[[セント・ジャイルズ大聖堂]]、ロンドンの[[セント・ポール大聖堂]]を含むイギリス中の教会で5年間展示された。2000年2月、十字架はケント公によって正式に贈与され<ref name="tempprince"/> 、[[D-デイ]]記念60周年の数日後にあたる2004年6月22日にドームの上に取り付けられ<ref>[http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/europe/3830135.stm BBC NEWS | World | Europe | Dresden ruins finally restored<!-- Bot generated title -->]</ref>、聖母教会の外装が完成した。